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さて、運命は二つの観点から見る必要があるということでした。
一つ目は永遠に生き通しの生命としての運命観であり、二つ目は肉体生命としての何十年かの人生に於ける運命感であるという話をしてまいりました。
この二つの視点は、今までの説明から考えてみますと全く別なるものではなく、一本のライン上に原因・・・結果のプロセスの基で融合しているものであるのです。

それは理想と現実との相関関係と等しく、理想を抱くもの(描くもの)が現実世界に現れて来る…というように、永遠の生命としての進化に伴った運命を、肉体を纏うことによって更に厳しい魂修行を通して、この地上でも進化に伴った霊的運命を辿ってゆこうとすることと同義であるということなのです。

然し乍ら、この地上に肉体を纏って生きている間に、肉体的な怠惰な生活に傾倒してしまい、本来の夢(使命)や理想(役割)を忘れ去り、マイナスの心(悪業・・・カルマ)を自身の心に多く生産し記憶に留め、反省することなく人生を終えて行くために、あの世と言われる幽界にて引き続き苦しんでいる…。
そして霊界に住まう友人知人らの導きの末に、マイナスの心を修正して本来の魂の郷里に帰り着き、自身の魂の傾向性(此処ではマイナスの心を指す)を修正するために、時を経てまた地上に生まれ変わって来るわけです。

その折に自身のマイナスの心を修正し易い環境(地域や家庭)を選んで来るわけですが、それは何故かと言いますと、地上人間として肉体を纏うと殆どの霊的記憶を忘れ去ってしまうため、自身のマイナスの心が一体、何であるかということも忘れてしまいます。
そのため自身のマイナスの心が何であるのかを気付き易い環境を選んで来るのが真実であります。

皆さんを現在、取り巻いている環境や境遇(家庭環境や人間関係)そのものが、皆さんにとってのマイナスの心が何であるかと言うことを気付かせる為の縁であるわけです。
そうであるならば自分自身を取り巻いている環境や境遇から、逆に自身のマイナスの心を逆発想することが出来るのです。
家庭内での様々な問題や、学校や職場での諸々の問題など、いつも同じような苦しみ悲しみが起こって来るということは、それはもう自分自身のマイナスの心の現れなのです。

決して誰にも責任を転嫁出来ないのです。
例え相手が100%悪いように見えていたとしても、敢えて其の環境を選び、又は選び易いように計画を立てて来たのは、他ならぬ自分自身であったのです。
相手は敢えて我が身のマイナスの心が何であるのかを知らせんが為に、そのような悪しき役柄を演じて下さっている観世音菩薩の慈悲の説法なのです。
これは有り難いことなのです。

そうした相手との問題(縁)が無かったならば、自身のマイナスの心が何であるのかが判らないまま過ぎてしまったかも知れないのです。
その時の相手の存在は、自分自身のマイナスの心を気付かせる為に、敢えて自己の霊性を落としてでも、辛い役柄を演じて下さった人なのです。
そのような人に対して心から感謝し、その人の前途が今後より一層、幸福でありますことを信じ祈ってあげなければならないのです。

このように自身のマイナスの心を気付き易い環境に生まれ、生活してゆく中で、いつも自分が犯しがちな過ち(間違った思いや行為、悪癖なども含み)があると思います。
それがいったい何であるのかを、先ず見極める必要があるのです。
普段の生活が当然であると思い込んではいけないのです。
利己心の魔を一刻も早く取り去らねばならないのです。

マイナスの心はマイナスの心としての方向性(傾向性)を持っております。
何時も何かに囚われて、自棄に興味をそそられ、その思いに操られるが如く、自分でもコントロールが効かない程に同じ物事に心が引かれて行く…。
そして其れは大抵の場合、欲望と怠惰である訳ですが、止めたいと思いながらも止められず、いけない事と知りながら其の行為を行ってしまう…。
其処には其れらの行為を呼び込むような、魂の傾向(方向性)が有るということに気付くべきであります。

この魂の傾向こそが俗に言う『宿命』と言われるものに該当いたします。
宿命と言うものが現在まで逃れられないもののように伝え残されて来た訳ですが、真実は自分自身が過去(過去世を含み)に於いて、マイナスの心として自分で自分の心に刻み、今世に於いて其れを修正すべく、人生の課題として、人生の問題集として取り組んでいる、十分に修正可能な、いいや修正してゆくべきマイナスの心である訳です。

自分自身の心の問題として誤って生み出した宿命であるからこそ、自分自身の努力と根気で解決してゆけるものであります。
自分で解決出来ないような問題は、もともと生み出しようが無いのでありまして、諸々の環境も境遇も全て自分の心の副産物である。
仏教で説かれる三界唯心所現とは、これら心の法則を厳密に説いた正法仏理であったのです。
ですから悪戯に宿命を避けて目を瞑ってしまうべきものではなく、勇気を持って其れらのマイナスの心を見極めて修正してゆくべきではないでしょうか…。

地上人間の環境や境遇は、自身のマイナスの心を修正する為に、最も適した環境を選んで来たという話をしてまいりました。
そして其の環境から自身の魂の傾向を読み取り、マイナスの心を修正する必要があるという事でありました。
マイナスの心を修正する為に選んで来た環境であるならば、そこで廻り逢う人たちも、自身の魂の傾向性を気付かせる人たちであると言う事でもあります。
こうしてマイナスの心を見極め、それを反省して心を修正し、今後の人生のプラスの要素として、それらの体験を生かしてゆけたならば、マイナスの心はプラスの心となりて、貴方の未来を輝かすことになります。

何故一早くマイナスの心を修正しなければならないかと言いますと、それらのマイナスの心に覆われて小さく埋もれている、貴方のプラスの心(真実の夢)を現し出してほしいからです。
何十年かの魂修養に於いて、マイナスの心の修正(カルマの刈り取り)のみで終わってほしくないからです。
ましてやマイナスの心に気付くことなく人生を終わってはならないのです。

運命論でもお話ししましたように、人間の本来の生命は、尽きない進化を臨むことが本義なのです。
真実の愛を深め広げることこそが本義なのです。
此処を間違ってはならないのであります。
進化を臨む中で、間違った自由意思を持ったが為に、マイナスの心を強く記憶に刻んだのです。
そうである以上、マイナスの心の修正のみで決して良しとしてはならないのです。
マイナスの心を修正し乗り越えて、生命(自分自身)の本来の進化に添った本当の夢追いにまで、人生を昇華させてほしいのです。
そこまで人生を有意義に生ききってほしいのです。
いいや、そうであるべきだと思います。
自分自身の環境の意味を知った時、自身の魂の傾向に気付いた時、そしてマイナスの心を修正し、それらを乗り越えた時に、人間は『愛』というものの本当の意味を悟るのであります。

出逢いというものが、真実の愛を深め広げる為の縁であったと、心の奥底から自覚することになるのであります。
自分自身のマイナスの心により現れていた環境や境遇を乗り越えた時、始めて自身の本来の夢追いが何であったのかを悟ることになるのです。
その時に始めて、今まで現れていた悪環境の中に、ひっそりとかも知れませんが、自身の真実の夢追いを叶えんが為の環境や境遇、それと共に夢追いの協力者たちが、いつも寄り添っていたということに気付くのであります。
マイナスの心(迷った心)では、決して其れらの善環境は見い出せないのです。
プラスの心(迷い無き心)になって始めて、其れらの善環境を見い出すことが出来、真実の夢追いのプロローグを迎えることになるのであります。

遠い昔、其れは前世ではなく何世も昔の事であると思いますが、生命(人間)が地上に始めて降り立った時には、誰一人としてマイナスの心を持ち合わせてはいなかったはずなのです。

それぞれ(個々生命)がそれぞれ(使命役割)の進化に添った真実の夢を心に抱き、希望に前途を照らされて総て(降臨)が始まったはずなのです。
そうであるはずなのに自分一人の立場・思惑・都合のみを主張し始めた時、暗黒に通ずる黒雲思念がモクモクと発生して来たのです。

その後、幾時代を重ね、自己の尊厳や利得のみを主張する者が富に増え、逆に心正しき者が虐げられるような悲しい時代となってしまいました。
何処を見渡してみても自己中心的な言動をする人が多い為に、多勢の常識として其れを当然と思い違いをして、生まれ育ってくる幼子たちは皆、歪んだ大人たちを見本として素直に其れを真似て、益々生命の光を閉ざして行くしまつ…。
何が本当に正しいのかを知らず(知ろうともせず)、日々の怠惰な生活に埋もれてゆく…。

こうした世の中で真実の夢追いを心掛けてゆくことは誠に困難ではありますが、光(善性)を失いがちな現代であればこそ、偽善(欲望・怠惰)の夢追いではなく、真実(愛の為)の夢追いを一人でも多くの悟りし者が心掛けて、誤った価値観を修復し、歪められた愛を修正してゆく必要があるのです。
一人一人それぞれの夢(個性)を通して、真実の愛を一人でも多くの人々に伝えてゆく必要があるのです。

精神性の向上に於いての、進化の流れを塞き止めようとする人たちが多い現代の中で、老若男女を問わず、一人でも多くの心ある勇士が立ち上がって下さることが今、望まれているのです。
これが全ての人に共通の使命であると言えるのです。
誰もが同じ使命の下に希望を抱き勇気を持って地上に降り立ったのであります。
決して特別な人にだけ特別に与えられた使命ではなく、皆が地上に降り立つ以前に強く心に抱いた共通の使命なのです。
それは一重に『積極性』への帰還であります。
その時(地上に降り立つ以前)の想いを…迷える地上の人たちを憐れみ、何とか救ってあげたい…と、大いなる神に切なく願った想いを、どうか貴方も想い出して致だきたい。

音楽を愛する者はメロディーに愛を奏で、文学を愛する者は文章や詩などに愛を込めて、科学を愛する者は科学を通して真実の愛を発見し続け、絵画を愛する者はキャンパスに愛を表現し、政治経済に道を求める者は其処に秩序と調和が顕現することを目指し続け、それぞれ(個々生命)がそれぞれ(使命役割)の夢(人生)を通して真実の愛を深め、進化に添った方向で努力し続ける中に、真実の夢追いが光り輝いて来るのです。

そうした夢追い人たちが真実の愛に叶った時代を創り、歴史を塗り替えてゆくのです。
その勇士たちとは、他ならぬ貴方たちのことであるのです。

貴方たちは革命を起こすために生まれて来た訳ではありません。
平和運動とはいえ争いの思念の下に戦いを起こすことが、どれほど悲惨な状況を展開して来たかは、歴史を振り返れば明白なのです。
むしろ貴方たちは精神的革命を起こす為に、凡ゆる部門に、凡ゆる善なるアイディアを工夫して、個々の夢を通して真実の愛を此の地上に現してゆくべきであります。



06  実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】

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人間は決して悪人として生まれて来たのではありません。

生まれながらの悪人など一人として居はしないのです。
では何故、世の中には犯罪が溢れ、疑心暗鬼が横行しているのでしょうか?
幼い頃は誰もが素直で明るく天真爛漫に育っていた筈なのに、何時の日にか素直さを忘れ、悲しみに明け暮れて、他人を信じられないばかりか、自分自身をも信じられない程に迷って行く人が殆どなのです。

中には自分だけは迷っていないと言う方が居らっしゃるかも知れませんが、人間の本質が何であるのか?
真実の愛とは如何なるものなのか?
これらの問い掛けに正しく答えられなければ、もはや迷っているとしか言いようがないのです。
もう既に自分自身の本来の姿、本当の在り方、誠の生き方が解らないでいるのです。

本当に自分が何者であり、どの様に生きてゆくかが解っているのならば、決して人を傷付けたり詰ったりはしないでしょう。
影口悪口など出来ないでしょう。
何があろうと腹を立てたりはしないでしょう。
他人よりも優秀であったとしても決して驕り高ぶったりはしないでしょう。
いいや、出来ないのです。

人間の本質や真実の愛が何であるかが本当に解ったならば、それらの行為がどれほど相手の心を傷付け、それと同時に自分をも傷付けているかが、自身の心に痛いほど響いてくるからです。
そうして自分自身が迷っていることすら解らず(知ろうともせず)、迷ったままを人間として当然であると誤信し、迷ったまま其のままの思いと行為とで生きている為に、他の人の気持ちが理解できるはずもなく、それが理解できないが為に自己中心的な思考となり、恰も地球が、宇宙が、自分を中心に周っているとでも思っている。
そして自由を尊重するべきだと言い張りながら、誰も彼も自由だ自由だと個別化して行く中で、自由と自由が衝突し合い、凡ゆる争いとなり、進んでは犯罪にまで発展して行くのです。

自分が解らないが為に相手に対する見方が疑いとなり、全てを疑って見る為に其処から疑心暗鬼となって、間違った言葉を巡らして更に迷って行くのです。
こうしたことが本当の人間としての在るべき姿でしょうか?
時代の転換期である現代は世の中が乱れ、例外なく迷いの波動の延長線上に誰もが居るということを、そろそろ人類は気付かなければならないのです。
そして気付いたならば進んで心の修正をしてゆかねばならないのです。
本来の本当の人間としての姿に、一早く立ち帰らねばならないのです。

人間は自分自身の運命を、自ら計画して生まれてきたにも関わらず、人間の本質を忘れ、真実の愛を忘れて、罪や悪といった過ちを積み重ねて行くようです。
人の一生は全て自身の心に記憶されているため、これらの過ちも例外なく残されて行くのです。
ただ真実に目覚め、過ちを過ちと気が付き、反省して心を正しく入れ替えて、一つの体験として今後の人生に生かして行けたならば、その過ちはプラスの体験となりて、心の糧として記憶に残されてゆくことになります。

このように人々が起こす過ちは、心の修正なくしては悪業(マイナスのカルマ)として残されて、正しく心の修正が出来るまで、同じような環境と境遇を呼び(類が類を呼び)繰り返し反省を促され、今世で心の修正が出来なければ来世に持ち越すことになります。

カルマには、このような悪業としてのマイナスのカルマと、もう一つ善業としてのプラスのカルマがあります。
善業(プラスのカルマ)とは、即ち愛の想いが魂に刻まれた傾向性として、自然法邇に愛の行為として現れてくるものです。
この善業は積極的に愛を施してゆく中で、善なるカルマを心に残してゆくことも可能であるはずです。
愛の想いと行為とが、本当に真実を貫いたものとして現すことが出来たならば、それ相応の悪業が消える場合も有り得ます。
…というのは過去に犯した過ちを反省に促すような愛の想いと行為であったならば、マイナスの要素がプラスの要素に補われて消えてゆく場合があるということです。
愛というものには、このように悪業を善転させてゆく力があるのです。

人間は同じカルマを心に残すならば、善業(プラスの心)をのみ残してゆく努力が大切なのではないでしょうか。
こうした善業(プラスの心)こそが、人間の本来の夢追いに通ずるものなのです。
結局、夢を追うことに於いて、誰かを傷付けるような夢追いであってはならないということです。
むしろ一人でも多くの人たちの幸福に繋がるものとして、何処までも夢を追い求められるべきであります。

この幸福についても、肉体的な快楽といったものではなく、あくまでも精神的向上に繋がる幸福でなければならないのです。
精神的に時代を押し上げるようなものとして、又は次代を担う人たちの精神的な希望と勇気に繋がるものとして、彼らへの心の遺産として、より高貴なる姿のままに、夢を広げ愛を深めて、彼らに愛に叶った夢を伝え残してあげるべく義務があるのではないでしょうか…。
それが彼らより先に生まれたものとして、彼らより先に生きた者として、この時代を最高の芸術として次代の人たちに預け継ぐ義務があるのです。

そうしたことから考えましても、自分一人だけの利益の為の夢追いが、何と小さく儚いことであるかが解って致だけると思います。

本当の夢追いが、どんなにか高貴で素晴らしいことであるかを、よくよく考えて致だきたいのです。
そしてどれほど遣り甲斐があり生き甲斐となることかを考えて致だきたいのです。

人間は生まれる前に人生計画を立てているということですが、そうであるならば既に個人々々が追い求めるべき夢は、個々の心の中にシッカリと刻まれているはずなのです。
そうして自分自身の夢追いに対して、最も適合した環境を選んで生まれて来たはずなのです。
すると現在、貴方を取り巻いている環境や境遇が、貴方の理想(使命)とは何であるか、貴方の実相(役割)とは何であるか、貴方の個性(正体)は誰であるのか…を、如実に表現しているということなのです。

皆さん、喜んで下さい。
皆さんの夢は必ず叶います。
まず自分がどのような夢を心に抱いて生誕して来たのかを、自身の環境や境遇から、そして自身の魂の傾向性から読み取る作業から始めるべきなのです。
これから詳しくお話し致しますが、その前に『理想』と『現実』について少しばかり語ってみたいと思います。

夢は必ず叶います。
叶うから夢というのです。
凡そ此の世界に生まれて来た人たちは皆、心に夢(使命)を携えて、希望を描き勇気を持って生まれて来たのであります。
現代、この三次元世界で夢が虐げられがちな理由の一つとしては、夢というものが単なる理想論であると思い、理想と現実とを無理矢理に引き裂き、あくまでも理想は理想であって、現実の中には同居出来ないものであると思われがちであるということです。
つまり理想というものは現実ではないから叶わないものだと決め付けているということです。
しかし現実を見つめてみて下さい。
現在存在している全てのものは、かつて誰かが何処かで心に抱いたであろう理想から現れて来たものであるのです。

その昔、人類は限りなく広がる空に理想を描き、何時かは此の大空を飛んでみたいと夢見たはずです。
その夢は、やがて人類の文明とともに叶えられて来たのです。
空を飛びたいという願いは、その夢を真剣に追い求めて来た人たちによって叶えられ、現在は彼ら夢追い人たちの恩恵を受けて、ロケットや飛行機、気球やハングライダーによって、自由に大空を飛び回ることが出来るようになりました。

又は遠くまで気軽に短時間で行けるようになりたいと描かれた夢が、夢追い人たちの努力により現在、自家用車や電車・バス、新幹線などによって叶えられ、更にリニアモーターカーへと夢を託しているではないですか…。

世の中を明るく照らしたいといった夢が、現在こうして凡ゆる照明器具となり、遠くの知人と何時でも手軽に話がしたいという夢が、電話回線を地上に張り巡らせ、電波塔や人工衛星によって世界各所の電信機器を繋いでいるではないですか…。

人間の生活そのものは、そうした夢追い人たちの理想を追い求める努力があったればこそ成り立っているのです。
そうした夢追い人たちが、例えば夢を追い求めなかったならば、皆さんの生活は現在のように便利な状態では成り立ってはいなかったであろうと思うのです。

このように理想と現実とは、全く別物ではなく、理想を描き、その理想を追い求めて形に表したとき、現実のものとして三次元的存在を投影(現象物として形を現す)して来るものであります。
つまり理想に描いたものが現実世界に流露(流れ出して現れてくる)して来るということが真実なのです。

理想の『理』と現実の『現』とは非常に似ているのであります。
理想の理は王編に『里』という旁で構成され、現実の現は同じく王編に『見』という旁で構成されております。
つまり現実は現れた事実を見るということであり、理想は理念を想い描くことであり、理想(理念)こそ現実世界の里(郷里)であるということなのです。



06  実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】


此処で肉体生命としての自由意思について語ってみたいと思います。

人間(肉体生命)として生まれ出ても、やはり善と悪との自由選択があるように見えます。
此処での悪とは一体、何を意味するのでありましょうか…。

曰く、此処での悪とは個性を尊重し過ぎる為に、他の個性との協調性や団結といった、相互理解の方向に意識が薄く、常に自分が自分がと自己中心的になり、他を排斥し裁き傷付ける…といった、正に自由意思を誤解しているとしか思えないような思いと行為ではないでしょうか…。
そのような誤った破壊的な思いと行為による自由意思が互いに相剋(相争い)し合って、大小の災禍が巻き起こって来るのです。

悪の正体を敢えて言うならば、破壊的な思いと行為であると言えます。
人心を失望落胆させ、個別化(孤独化)に誘引する暗黒思想であります。
そしてその手口は、精神界を迷妄の狭霧で封印し、肉体そのものが人間であるとして、肉体的五感の快楽のみを人生の目的として、行く末は肉体滅後は無に属すため、余生は自分本位に自由気儘に行きよ…と、生命の本質である進化の流れを堰き止めんとする迷いし意思であります。

破壊の後にユートピアが訪れる…と言った方も居たようですが、それはやはり間違っています。
何故なら破壊的行為が起こされて来る以前には、やはり破壊的思念があったはずで、その破壊的思念を改めなければ、破壊的行為は繰り返し巻き起こって来るからです。
このことは今さら論証せずとも、既に歴史が傷痕として証明している事でもあるのです。

人類の長い歴史の中で、叶うはずであった数多の理想が、悉く闇に封じ込まれてまいりました。
本人が理想を描かないだけに止まらず、他人の夢まで踏み躙る人まで出て来ています。
皆さんには聞こえませんか…?
叶うはずであった幾多の理想が、光が閉ざされた闇の中で誰かの助けを呼んでいる声が…。
貴方には聞こえないでしょうか?

現実(合理主義)という闇が、欲望という狭霧(仮初め)の夢が、唯物論(肉体のみ)という暗黒が、本当の生命価値が何であるかということを惑わせているのです。
それは工場がスモッグを吐き出して、青空を、太陽を、星々を曇らせているように、純粋な心を誤った思想で曇らせて、正しい理想を封じ込めているわけなのです。

この誤った思想とは一体、何なのであるかと言いますと、肉体のみが人間である…という思想です。
それは肉体各機関が原動力のように思い違いをし、脳ミソによって考え判断しているようにも思い違いをしている…。
こうした思い違いをしている近代の科学者たちが発見した理論からしても、肉体は新陳代謝を繰り成しながら常に新しい肉我を創り続け、古い肉我は体外に排出され続けております。
学者によって多少違いはあっても、約五年から八年ぐらいで、すっかり新しい肉体に変わってしまっているのです。
皆さんが生まれた時に纏っていた肉体は、もう既に其処には無いのです。
そうでなければ肉体的な成長は有り得ないのです。
肉体的な活性化は望めないのであります。
近代の科学者はこの事実から、霊的科学の領域に探究の手を広げるべきでありました。

脳髄についても例外ではなく新陳代謝を通して全て変わってゆきます。
ただ其の周期が長いだけである…。
それなのに一定の個性が存続している神秘を、よくよく考えてみなければならないのです。
それは肉体が人間の本質ではないということを物語っているということなのです。
それなのに多くの人は肉体のみが人間だと思い違いをして、肉体を楽させることが文明だと誤信して、その為の合理主義に傾倒し、偽りの繁栄を貪ってきたわけです。

合理化が合理化として認められる為には、精神性向上の時間を創り出す為の合理化であり、他者との愛を深め合う場所を確保する為の合理化であらねばならないはずなのに、精神的感覚を余り使わないで済むような方向に合理化が進むばかりで、怠惰な生活を大量生産しているに過ぎないではありませんか…?



こんなに曇っているのに
なぜ人は気付かないのだろうか
こんなに叫んでいるのに
人は何故 気付こうとしないのか…

遠い昔…
希望で胸を膨らませて
美しい地球に降り立った
大地は優しく微笑んでくれた
草花たちは祝福の詩を歌ってくれた

現代では…
それらの声は聞こえない
そればかりか
美しい自然を蔑ろにして
大気を汚し 河川を汚し
樹木は悲しみの中で
切り倒されてゆく…

大自然の悲痛の叫び声が
貴方たちには聞こえないのか
大自然の心の訴え掛けが
皆さんには伝わらないのか…

合理主義への妥協の中に
いつまで浸っているつもりなのか
肉体の感覚に頼れば頼るほど
心の瞳は閉じてゆくことも知らずに…



皆さん、よくよく考えてみて下さい。
欲求と言われるものの出所を探るならば、必ず其れは肉体に起因します。
人間にとっての三大欲求とは、食欲・性欲・睡眠欲であると言われています。
食欲が沸き、食べたい思いのままに食べることが人間として当然だと思っていませんか?
性欲が沸き、異性を求め欲求を満たすことが人間として当然だと思ってはいませんか?
眠いまま眠り、多く眠ることのみが健康に繋がると思い込んではいませんか?
本当に其れが人間として当然の事なのでしょうか…。
そこには本当に精神性の進歩があるでしょうか。
そこに本当の愛が観じられるでしょうか…。

これらの欲求は肉体各所が、肉体の生理機関としての秩序が守られ、調和されていて始めて欲求が『要求』として許されるものであるのです。
その肉体諸機関の秩序を破り調和を乱しているものは、肉体のみが人間であるといった、間違った思想を信じている誤った心であるはずです。
肉体のみが人間であると思い違いをしている為に、そういった人間が抱く愛というものは、単に肉体を喜ばせようとする動物的愛に堕落してゆくのです。
そこから凡ゆる動物的快楽が生じてくるのです。

皆さん、人間は動物なのですか?
食欲を満たし性欲を満たし、あとは寝るだけの、そんな詰まらない事だけのために生まれて来たのでしょうか…。
そうではないでしょう。
もっと高貴なものの為に生まれて来た筈です。
どうか心の窓を開いて本来の姿(実相)を想い出して下さい。
何が一体、自分を苦しめているのかを、静かに心を顧みた時に段々と判って来る筈です。

普遍的な絶対的真実は確かに存在します。
しかし其の真実は、現代という時代に最も適合した形式で、誰もが求めることの出来る理想でなければならないのです。
そうであるならば何が正しくて何が間違っているのかを、皆さんは自分自身で考えてゆかなくてはなりません。
其処には必ず答えが出て来ます。
なぜならば現代を正しく見つめ直すことが出来るのは、現代を生きている皆さん自身であるはずだからです。

此処に新創世記(第5巻)詩篇の中の『光を捧ぐ』の一節を、再び記しておきたいと思います。



夢追い人よ

愛を深める旅人たちよ

愛と勇気を心に見出して

真実の夢追いを心掛けよ

歴史の転換期である今

その歴史を変えてゆくのは

他ならぬ貴方たちではないか

過てる価値観と

歪められたる愛を

勇気を持って転換してゆく為に

選ばれて地上に降り立った勇士たちよ

それは貴方たちのことであるのだ…



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