[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
繁栄とは、調和の拡大である。
調和なき繁栄は単なる混沌であり、秩序なき烏合の衆である。
また其れとともに繁栄を目指すところにのみ、真なる調和が築かれるのである。
繁栄を目指さぬような調和は、型に嵌った形式主義に陥り、魂の進化したものを引き摺り下ろし、未だ魂の進化しざるものを無理やり引き上げんとして、個々のペース(歩調)を乱して阻害し、相互に裁き合う世界が展開しがちである。
繁栄と調和とは二つにして一つ。
元々たった一つのものが、それぞれの個性の下に二つに岐かれて、各々の役割を完全に担って行くための、宇宙の根本的二大原理なのである。
万象万物の根本理念も、これら二つの理念(繁栄と調和)からなり、二つに岐かれたる繁栄と調和の理念を、一つに融和するところに生命の創造が果たされ、その個生命の中よりエネルギーを湧き上げてくるのである。
繁栄と調和は時には天(理念)と地(具現)に岐れ、時には遠心力と求心力とに岐れ、時には生長と生育とに岐れ、時として男性と女性として岐れ、また多面として枝岐れて、それぞれの役割を演じ、個生命の彩りを発揮するのである…。
そうして岐れたる二つの理念、二つの概念、二つの事象を一つに融和し光に向かう時、新たな創造が成されてゆくのである。
天地創造も斯くの如く成されたのであり、小さな原子の創造も、大宇宙の創造も、其れがミクロであろうとマクロであろうと、その規模に関わらず一つなるものから岐れたる、複数の理念の融合によって創造され、更に光に向かうことによって、生命体としての働きを完うしてゆくのである。
人間の一生も同じであり、向上(繁栄)を目指しつつ探究(調和)を忘れず、愛を与え(伝え)つつ自らの愛を深めつつ、発展を望みながら他者との心の結びを忘れないように、大宇宙の二代原理である『繁栄』と『調和』に叶った人生が、最も美しい人生である。
この地上に栄えた在りと凡ゆる文化文明も、繁栄と調和の理念の融合によって創造され、融和体としての理念に兼ね備わった創造体のみが、更に自己展開して新たな創造への道を歩み始め、永々と歩みを続けるのである。
繁栄とは、向上発展を目指す一つ一つの個性が、供に手と手を携えて、愛の基に助け合い励まし合い、時として切磋琢磨して生かし合い伸ばし合う…。
その姿は大樹に例えられる。
調和とは、結び協和を目指す一つ一つの個性が、それぞれの生命の本質を尊びつつ、徳性(歩み)の段階(歩調)に従って秩序立ち、愛の基に理解し合い支え合い、時として十分に距離を置いて、時期を待ち和解し合う…。
その姿は大河に例えられる。
夢追い人よ、貴方の夢が、ここ一日二日で実現するような淡く儚いものならば、一日二日の短い喜びしか味わえないのだ。
けれども夢追う人よ、貴方の夢が五年・十年・二十年・五十年と、遠く大いなるものならば、貴方の喜びも時の流れとともに永遠となるのである。
そうして貴方の夢が、例えどの様な夢であろうと、先ずシッカリとした地固めをせよ。
足場を固めよ。
基礎を確立せよ。
自らの心を常に顧みて、自己の傾向性をチェック(反省)せよ。
自らの心を掴めなくして、他者の心の痛みは理解出来ないのである。
何故なら自己の傾向性が見出せないならば、自己の都合で他者を推し量ることになるからである。
他者の心を理解したければ、相手が立つ大地(視点)に自らの足(歩調)を立たしめて、供に次の一歩を目指せばよいのである。
全ての生命を尊ぶ者は、悪戯に他者を非難して裁くことはないのである。
例え現状がどうであれ、生命は光(未来)を目指して旅をしているのである。
自己の立場、自己の評価に捕らわれているもの程、自と他の位置関係を気にするのである。
自己の報酬、自己の願望に捕らわれているもの程、自と他の損得問題を気にするのである。
人間の成長過程にて、心して諌めねばならんものとは、自己確立の際の失望と怠惰であり、調和を目指す際の不信・不審・疑心暗鬼であり、更に発展繁栄を目指す際の自惚れ・自己増長である。
夢追い人よ、此れらの魔の手を掻い潜れ。
貴方たちには夢(理想)がある。
貴方たちには光(希望)がある。
勇気と限りなき愛がある。
常に自己の言動を顧みて、心の浄化に努めよ…。
やがて生命の本質が輝き出す時が来るのである。
貴方の歩む道(人生)は希望そのものなのだ。
貴方の生命が希望そのものであるからである…。
06 実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】
透き通るような青い蒼い空の中に、一握りの雲が、気持ち良さそうに漂っている。
太陽を背にして雲は大地に影を映し出している。
その影の形を変えようとしたところで、影の本体である雲そのものが変わらぬ限り、影は影として存在し続けるのである。
この地上に在る全ての物質は、生命の発露としての心の影である。
心に強く想い描いた理想が、やがて時を経て具現化してきた心の産物なのである。
環境も境遇も、自らの過去(過去世を含み)の想いの現れであることを、正しく熟知する必要がある。
夢を追う者は特に此の真実を、自己の強き責任観として受け止めて致だきたい…。
此処に幼い子供が居る…。
子供は影絵を楽しんでいる。
壁に写る様々な影絵に、また其の動きに、驚きと不安とトキメキとを感じながら、ひたすら影を追っているのである。
幼い子供は、壁に写りたる影に触れて何とか形(影)を変えてみたいと、あれこれ思い悩む訳であるが、自分の思い通りにならない影に対して、時には泣き出し、時には癇癪を起こして壁を叩き物を投げ付けたりもする。
しかしやがて幼い子供も、影を形作る本体の存在を知り、幼子自身が自由自在に影を操る立場に立つのである。
この地上に存在する全てのものは、総て生命の発露(展開)である。
現に形代(形式)として存在するものを変えてゆく為には、元なる思念を変えてゆく他あるまい…。
尤も応急処置として其の場凌ぎの対処が必要な時もあるであろうが、本当の意味で運命を変えてゆく為には、形式を超えた心象(こころ)に目覚めてゆく必要がある。
現れの元から根こそぎ変えてゆく他あるまい。
現代の科学者は、三次元スクリーンに写りたる影の存在を測り、其の動きを観察して、元なる理念(こころ)を法則化し証明することを主として行なっているようであるが、真に目覚めた科学者は、生命の発露を本当に悟り、其れを人々に正しく説明する為の手段として、科学を通して理論を発表されているのである。
其の視点が凡百の科学者とは180度、いや360度違う処にあるのである。
万有引力を発見したニュートン博士にしても、木から落ちる林檎を観察して万有引力を発見したとされているが、落ちる林檎は単に機縁(キッカケ)に過ぎなかったのだ。
形態を超えた理念(こころ)を悟らずして、万有引力は発見しえるものではないのである。
ニュートン博士は生命の発露としての真実の法則性を既に悟っておられたからこそ、万有引力は発見されたのである。
また相対性理論を発表されたアインシュタイン博士も、生命の発露としての理念(こころ)の相異性を十分に悟っておられたからこそ、相対性理論が打ち立てられたのである。
形を合理的に、どれだけ推し量ったとしても、心に目覚めてゆかなければ、単に形骸だらけの枠に固執した、机上の空論で終わるのである。
夢追い人たちよ、貴方たちは主たるものを見失ってはならない。
それは『心』であり『愛』である。
生命(心)の発露として、愛の想いが溢れ出した夢追いこそ、本当に多くの人々の幸福を創り出すのである。
それなのに体裁や欲得願望や富や名誉などが目的となって、後から大義名分として愛を付け足すような夢追いは、多くの歴史が物語っているように、罪なき衆生を巻き添えにして、歴史に爪痕を残すのみであるのだ。
よって夢追い人であればこそ自らに責任を持って、常日頃から自身の言動に注意せねばならない。
心の世界は真実の愛の下に、誠に正しく秩序が確立されているのである。
より深く、より広く、より高く、より純粋に、愛の核心に近付けば近付くほど徳性は高まり、多くの愛の源泉を、直接その身に体現してゆけるのである…。
上下左右関係のような平面的秩序ではなく、ピラミッド型の立体的秩序でもなく、真実の愛の核心に、総ての個性が集中統合し、個々の生命の真価を尊び合い大調和し、それぞれの役割を完全に担い、時間(永遠)と空間(無限)とを融合して、大いなる繁栄を目指す究極秩序が、神霊(こころ)の世界に展開しているのである。
総ての夢の本質(中核)は『愛』であり、形を超越した本当の愛に目覚めてゆく為に、夢追う人よ精神界(こころ)を探究せよ…。
心の中には総てが具わっているのである。
心の中にこそ本当の生命の自由が展開するのである。
そして心の根源にこそ全ての運命開拓の鍵があるのである。
貴方の本体は生命(こころ)であり、心こそ主であり肉体は従であり、全ての環境や境遇でさえ、貴方の心の発露であることを忘れるな…。
此れが人間にとっての基本的秩序であり、心の王国を主体的にコントロールする秘訣でもある。
自らの感情(欲望)の奴隷とならず、怒りを鎮め、欲求を沈め、荒れた心の波立ちを凪いでゆく勇気を持て…。
貴方の本体は心の中にこそあり、全ての感情の統治者こそ貴方自身であるのである。
06 実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】
今日一日の生活が終わり、独りで床に着く時に、ふと心を過ぎる寂しさは、いったい何であろうか…。
一日を振り返り、語り合った言葉の一つ一つを、細々と噛み締めて考えてみるならば、其処にはどれ程の成果があったであろうか…。
自分自身が語った言葉は、自己の想いの伝達(響き)ではあったが、其の言葉を受け取った人々は、やはり様々な受信(受取り)をしているであろう…と。
響き合う者同志であれば、言葉少なくとも解り合えるであろうが、響き合う対称が違うものであるならば、相手の響きに合わせてゆく他あるまい…。
向こう(相手)が合わせてくる事を、お互いが待っていたのでは、単に時が流れるだけである。
人の数だけの理想論があり、人の数だけの夢追いがあるならば、お互いの共通項を見い出し、助け合い生かし合える部分から、手(心)と手(心)を結び合わせてゆく他あるまい…。
悩みながら、苦しみながら、探し求める解答を見出せぬ日々…。
頭を巡る様々な思い(迷妄)に全てを失いそうになるような時は、直面する課題を一端は何処かに保留しておいて、一人静かに輝き渡る星空を、そっと仰いでみてほしい…。
星々の輝きは、時間も空間をも超えて、いま此処に居る貴方の下に降り注いでくる訳だが、此れら一つ一つの星たちは、貴方が心を開いた程度に従って、其の輝きを変えてくるものである。
彼ら(星々)は知っている。
貴方が言葉に表せない複雑な想念(おもい)を…。
貴方が伝えんとしている想念(おもい)の深さを…。
何万、何十万光年の彼方から、この地上に届けられた輝きは、単なる光を伝えるだけでなく、確かな何かをメッセージとして、降り注いでいるのではないであろうか…。
大切な何かを、輝きをもって伝えんとしているのではないであろうか…。
形あるものは、其れが例え何であろうと、やがては時の流れとともに風化し、朽ち果て、宇宙の要素へと還元されてゆく。
移りゆく全てのものが流転し空転し、何時しか消え去ってゆく形骸を見て、いったい何が物質の本質であると捉えてゆけばよいのか…。
物質(肉体を含み)の生業は、形の奥なる真実を時として覆い隠し、更に人間の心を失わしめる方向へと走りがちであるが、逆説的ではあるけれども、地上的な生業が、形骸を超えた霊的真実の世界を悟る為の、キッカケ(起縁)となりプロセス(過程・階梯)とも成り得るのである。
最終目標として設定した理想が何処に在るかによって、地上生活の全てが意義深いものともなり、意味の無い人生とも成り得るのである。
理想とするものが何であり、其の為の自己確立としての個性化に於いて、其の心が自分本意であるか、それとも自我を越えた個性(役割)であるか、自身の善なる心に篤と問い掛けてみたいものである…。
心を開いて素直な気持ちで、自らの言動を一部始終、自己チェックしたいものである。
深い心の奥底、霊的深層心理の世界は、貴方の地上生活の全てに、誠に密接に関わっているのである。
地上倫理で理解出来ない物事ですらも、潜在意識下の霊的深層心理の世界からすれば、総て明らかになってくるのである。
日々、自らの心の内を照らし出し、自己の本来の姿(善性)を観つめ、原点を見失わず、自然の心(そのままのこころ)で新たな日々を歩み続ければよいのである。
自己の本来の姿が見出せぬ時は、常に自然の心で営みを続ける大いなる自然に対して、其の解答を問えばいい…。
そして海原のような安らかな懐かしさと、山々のような揺るぎない信念と、青空のような穢れなき気高さと、流るる風のような爽やかな優しさと、草花のような鮮やかな潤いと、大河のような清らかな力強さを貴方の心に持ちて、太陽のような暖かなる愛を、接する人々に伝え続ければよいのである。
大自然は荘厳極まりなく佇み、清楚な営みを展開し続け、崇高な光を投げ掛け、神聖な霊域(雰囲気)を醸し出し、ただただ賛嘆しざる負えない、無上無辺の優美さを理念として降り注いでくるのである。
貴方よ、其の大いなる優美の理念を、素直な心で受け止めよ…。
貴方の心に深く深く、優美の理念を体現させよ…。
この徳性を貫くならば、貴方の心は其のままで、大自然の愛の想い其のものと成り行くのである。
個としての貴方は、其のまま全体としての大自然そのものとなり、大自然そのものが其のまま、貴方の個性に反映されてくるのである。
常に自然界と貴方とは一体であり、貴方が語り掛ければ天地が応え、貴方が動けば宇宙が同じく動くのである。
総ては愛の力であり、自我を越え彼我を超えた、調和そのものの成せる御技である。
06 実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】