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自らの現在の人生観が正しいか否かの判断は、現状の自分自身の心の在り方では本当は判り得ないものでもあります。

どうしても人間は自らの価値基準を正当化したいと思うのが人情でもありますので、これも或る程度は個性化として認め合うべきものでもあります。
しかし個性化は個人的価値基準に過ぎないということも知って下さい。
複合的な多民族国家に於いて、個人の価値基準は個人のみに通用する価値観であることを悟り、複数の人民が寄り合う際には複合的な統合価値基準を創出させる必要があるのです。

現在の日本人は、日本国家が純粋な単一国家であると信じている人々も多いでしょうが、歴史上での事実を申し上げるならば、かつて太平洋に存在したムー大陸から移民した人々(毛族と言われておりますが)を始めとして、古くは海路よりシュメール人の末裔が洋上を渡って移民され、陸路よりはユダヤ人の末裔が大陸を辿って移民され、特に維新後は世界各国から様々な人種が日本の地に根を張り、その度に日本の国体は大きく揺れ動いて、国を二分するような戦火も巻き起こった次第であります。

しかし結果的には全ての民族を高天原の神々は受け入れた訳です。
何故ならば日本神道の中心理念が『産巣日(むすび)』であるからなのですが、本来の産巣日(むすび)は複合的価値観に基づいた価値そのものの発展性を、秩序と調和に盛り込んで、常に発展的融和(産巣日)を目指す方向に進められるべきものであります。
様々に個性化した民族意識を統合する為に、最も重要な理法として高天原の神々が創出されたものが、言わずと知れた『祭政一致』の理法であります。
この理法の趣旨に当たるものは、かつてムー文明に於いて帝王ラ・ムーの時代に遡りますが、ムー大陸の沈没によって全世界に散った同朋たちが、永き時代の変転の末に一堂に会した『里帰り』を意味している訳です。

この民族の『里帰り』については新創世記8巻(地の道標編)にて語られておりますので、此処では現在の人々が宇宙船地球号の中での複合的価値基準を『祭政一致』の理法に基づいて、創出する必要があると言うことだけ述べておきたい…。

さて、環境を踏破する正しい反省ですが、人間は何に於いて反省をすべきかと言うことになりますと、やはり複合的価値基準に於いての自らの言動について反省をするべきなのであります。
祭政一致というものが誤解されつつある訳ですが、これは原点に帰れば自分自身の価値観と他者自身の価値観の違いを認め合った上で、この二者の価値観を共同生活をする上で一つに融和させる為には、二者を超越した根本理念(古くは自然界の営みを、近くは実相世界の光明の真理を)に解答を求めることが最も良いであろうと神々は考えられたからです。
故に本当の意味での実相の理念を、神的把握できる人が一人でも居れば、国を統べる神官も政治家も学者も教育者も必要が無くなってしまいます。

けれども実相の理念を神的把握し得る覚者が未来永劫、連綿として輩出するとは言い難いのも事実であります。

従って各宗派・各政党・各学科・各論者…等々が、根本理念を神的把握し得る方法論を模索しなければなりません。
然し乍ら此の模索には結論はありませんので、終わりなき旅路へ船出する気概が要求されるでしょう。

昔、ギリシャの地でソクラテスやプラトンが説いた『イデア』こそ、実相の理念を神的把握したる覚者のみが説き得る神法なのであります。
彼らはイデアを結論付けては居られない筈です。
結論付けられるイデアは、地上的な閉鎖型の個人的な価値基準に他なりません。
この詳しい理由は八大霊学(新創世記9巻以降)にて説明しております。

とにかく実相の理念を神的把握し得ない人間であるならば、もはや謙虚に一つずつ『イデア』を学んでゆくしか方法はありません。

知らないと言う事は恥ずかしい事ではないのです。
むしろ知ろうとしない事こそが恥ずかしい事なのです。
本当の智者とは自らの無知を知る者であります。
『イデア』を学びつつ、其の途路に於いて(その都度の心境に於いて)自らの言動の反省をして致だきたいと思います。

反省と言うと道徳的で堅苦しく暗い事のように思われる方も居らっしゃるようですが、反省が其のように誤解された理由は、当人が正しい反省と言うものを知らないと言う事でしょう。
反省とは書いて字の如く『反りみて省く』という意味なのですが、現在一般的に行われている反省は、『返り見る…』ところで留まってしまい、『省く』ところまで行っていないのが現状でしょう。
…と言うのは「私が悪かった…」と自身の過ちや失態を『反り見て』認めているところで止まってしまい、「私は駄目な人間だ…」「私は馬鹿だ…」と単に自分を悪くイメージするだけで、一歩も先に進もうとしない人が多いと言う事です。

例えば間違った思いを抱いた自分に気付いたならば、それだけで反省に於いての『反り見る』部分に達している訳ですが、更に進んで…
「この間違った思いを抱いた自分は、本当の自分の在るべき姿(在るべき在り方)では無かった。本来は、ただ相手の幸福のみを信じて祈ってあげるべきであった…」
…と心を入れ換えて(修正して…)
「これからは其の人の幸福の為に、何かお手伝い出来るように努力しよう」
…と強く決意するのであります。

つまり反省とは、自分自身の過ちを謙虚に反り見て、間違った心を本来の正しい在り方に修正して、その経験から智恵と教訓とを弾き出し、今後の人生に智恵と教訓とを生かして行けるような心を強く決意して、その決意の通りに行動し得た時に始めて反省が正しく反省として成り立ち、その壁(環境)を卒業してゆくことになる訳です。

このように心の根本から間違った自分の心を反り見て省いて行けたならば、心に引っ掛かりや拘りが無くなり、自然体そのままの境地で相手を純粋に愛してゆくことが出来る訳です。
故に反省とは決して暗い性格の人の代名詞ではなく、本来の自分自身の内部に光り輝く実相を覆っていたスモッグを取り去る行為であると言えます。
自身の実相(本来の神性)をスモッグで覆っていることにさえ気付かぬまま、更にマイナスの心を生産している人の方が、光明の視点(実相の瞳)から見たならば、どれほど心の暗い人たちであるかを、そろそろ現代人は悟る必要があるのです。



07 実相流転 【水の道標1】

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