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人間は決して悪人として生まれて来たのではありません。

生まれながらの悪人など一人として居はしないのです。
では何故、世の中には犯罪が溢れ、疑心暗鬼が横行しているのでしょうか?
幼い頃は誰もが素直で明るく天真爛漫に育っていた筈なのに、何時の日にか素直さを忘れ、悲しみに明け暮れて、他人を信じられないばかりか、自分自身をも信じられない程に迷って行く人が殆どなのです。

中には自分だけは迷っていないと言う方が居らっしゃるかも知れませんが、人間の本質が何であるのか?
真実の愛とは如何なるものなのか?
これらの問い掛けに正しく答えられなければ、もはや迷っているとしか言いようがないのです。
もう既に自分自身の本来の姿、本当の在り方、誠の生き方が解らないでいるのです。

本当に自分が何者であり、どの様に生きてゆくかが解っているのならば、決して人を傷付けたり詰ったりはしないでしょう。
影口悪口など出来ないでしょう。
何があろうと腹を立てたりはしないでしょう。
他人よりも優秀であったとしても決して驕り高ぶったりはしないでしょう。
いいや、出来ないのです。

人間の本質や真実の愛が何であるかが本当に解ったならば、それらの行為がどれほど相手の心を傷付け、それと同時に自分をも傷付けているかが、自身の心に痛いほど響いてくるからです。
そうして自分自身が迷っていることすら解らず(知ろうともせず)、迷ったままを人間として当然であると誤信し、迷ったまま其のままの思いと行為とで生きている為に、他の人の気持ちが理解できるはずもなく、それが理解できないが為に自己中心的な思考となり、恰も地球が、宇宙が、自分を中心に周っているとでも思っている。
そして自由を尊重するべきだと言い張りながら、誰も彼も自由だ自由だと個別化して行く中で、自由と自由が衝突し合い、凡ゆる争いとなり、進んでは犯罪にまで発展して行くのです。

自分が解らないが為に相手に対する見方が疑いとなり、全てを疑って見る為に其処から疑心暗鬼となって、間違った言葉を巡らして更に迷って行くのです。
こうしたことが本当の人間としての在るべき姿でしょうか?
時代の転換期である現代は世の中が乱れ、例外なく迷いの波動の延長線上に誰もが居るということを、そろそろ人類は気付かなければならないのです。
そして気付いたならば進んで心の修正をしてゆかねばならないのです。
本来の本当の人間としての姿に、一早く立ち帰らねばならないのです。

人間は自分自身の運命を、自ら計画して生まれてきたにも関わらず、人間の本質を忘れ、真実の愛を忘れて、罪や悪といった過ちを積み重ねて行くようです。
人の一生は全て自身の心に記憶されているため、これらの過ちも例外なく残されて行くのです。
ただ真実に目覚め、過ちを過ちと気が付き、反省して心を正しく入れ替えて、一つの体験として今後の人生に生かして行けたならば、その過ちはプラスの体験となりて、心の糧として記憶に残されてゆくことになります。

このように人々が起こす過ちは、心の修正なくしては悪業(マイナスのカルマ)として残されて、正しく心の修正が出来るまで、同じような環境と境遇を呼び(類が類を呼び)繰り返し反省を促され、今世で心の修正が出来なければ来世に持ち越すことになります。

カルマには、このような悪業としてのマイナスのカルマと、もう一つ善業としてのプラスのカルマがあります。
善業(プラスのカルマ)とは、即ち愛の想いが魂に刻まれた傾向性として、自然法邇に愛の行為として現れてくるものです。
この善業は積極的に愛を施してゆく中で、善なるカルマを心に残してゆくことも可能であるはずです。
愛の想いと行為とが、本当に真実を貫いたものとして現すことが出来たならば、それ相応の悪業が消える場合も有り得ます。
…というのは過去に犯した過ちを反省に促すような愛の想いと行為であったならば、マイナスの要素がプラスの要素に補われて消えてゆく場合があるということです。
愛というものには、このように悪業を善転させてゆく力があるのです。

人間は同じカルマを心に残すならば、善業(プラスの心)をのみ残してゆく努力が大切なのではないでしょうか。
こうした善業(プラスの心)こそが、人間の本来の夢追いに通ずるものなのです。
結局、夢を追うことに於いて、誰かを傷付けるような夢追いであってはならないということです。
むしろ一人でも多くの人たちの幸福に繋がるものとして、何処までも夢を追い求められるべきであります。

この幸福についても、肉体的な快楽といったものではなく、あくまでも精神的向上に繋がる幸福でなければならないのです。
精神的に時代を押し上げるようなものとして、又は次代を担う人たちの精神的な希望と勇気に繋がるものとして、彼らへの心の遺産として、より高貴なる姿のままに、夢を広げ愛を深めて、彼らに愛に叶った夢を伝え残してあげるべく義務があるのではないでしょうか…。
それが彼らより先に生まれたものとして、彼らより先に生きた者として、この時代を最高の芸術として次代の人たちに預け継ぐ義務があるのです。

そうしたことから考えましても、自分一人だけの利益の為の夢追いが、何と小さく儚いことであるかが解って致だけると思います。

本当の夢追いが、どんなにか高貴で素晴らしいことであるかを、よくよく考えて致だきたいのです。
そしてどれほど遣り甲斐があり生き甲斐となることかを考えて致だきたいのです。

人間は生まれる前に人生計画を立てているということですが、そうであるならば既に個人々々が追い求めるべき夢は、個々の心の中にシッカリと刻まれているはずなのです。
そうして自分自身の夢追いに対して、最も適合した環境を選んで生まれて来たはずなのです。
すると現在、貴方を取り巻いている環境や境遇が、貴方の理想(使命)とは何であるか、貴方の実相(役割)とは何であるか、貴方の個性(正体)は誰であるのか…を、如実に表現しているということなのです。

皆さん、喜んで下さい。
皆さんの夢は必ず叶います。
まず自分がどのような夢を心に抱いて生誕して来たのかを、自身の環境や境遇から、そして自身の魂の傾向性から読み取る作業から始めるべきなのです。
これから詳しくお話し致しますが、その前に『理想』と『現実』について少しばかり語ってみたいと思います。

夢は必ず叶います。
叶うから夢というのです。
凡そ此の世界に生まれて来た人たちは皆、心に夢(使命)を携えて、希望を描き勇気を持って生まれて来たのであります。
現代、この三次元世界で夢が虐げられがちな理由の一つとしては、夢というものが単なる理想論であると思い、理想と現実とを無理矢理に引き裂き、あくまでも理想は理想であって、現実の中には同居出来ないものであると思われがちであるということです。
つまり理想というものは現実ではないから叶わないものだと決め付けているということです。
しかし現実を見つめてみて下さい。
現在存在している全てのものは、かつて誰かが何処かで心に抱いたであろう理想から現れて来たものであるのです。

その昔、人類は限りなく広がる空に理想を描き、何時かは此の大空を飛んでみたいと夢見たはずです。
その夢は、やがて人類の文明とともに叶えられて来たのです。
空を飛びたいという願いは、その夢を真剣に追い求めて来た人たちによって叶えられ、現在は彼ら夢追い人たちの恩恵を受けて、ロケットや飛行機、気球やハングライダーによって、自由に大空を飛び回ることが出来るようになりました。

又は遠くまで気軽に短時間で行けるようになりたいと描かれた夢が、夢追い人たちの努力により現在、自家用車や電車・バス、新幹線などによって叶えられ、更にリニアモーターカーへと夢を託しているではないですか…。

世の中を明るく照らしたいといった夢が、現在こうして凡ゆる照明器具となり、遠くの知人と何時でも手軽に話がしたいという夢が、電話回線を地上に張り巡らせ、電波塔や人工衛星によって世界各所の電信機器を繋いでいるではないですか…。

人間の生活そのものは、そうした夢追い人たちの理想を追い求める努力があったればこそ成り立っているのです。
そうした夢追い人たちが、例えば夢を追い求めなかったならば、皆さんの生活は現在のように便利な状態では成り立ってはいなかったであろうと思うのです。

このように理想と現実とは、全く別物ではなく、理想を描き、その理想を追い求めて形に表したとき、現実のものとして三次元的存在を投影(現象物として形を現す)して来るものであります。
つまり理想に描いたものが現実世界に流露(流れ出して現れてくる)して来るということが真実なのです。

理想の『理』と現実の『現』とは非常に似ているのであります。
理想の理は王編に『里』という旁で構成され、現実の現は同じく王編に『見』という旁で構成されております。
つまり現実は現れた事実を見るということであり、理想は理念を想い描くことであり、理想(理念)こそ現実世界の里(郷里)であるということなのです。



06  実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】

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