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それでは【風の道標】の終極として、此処では心の法則について語ってゆくことになります。
一言で心と言っても、其の発言は多種多様であり、誠に表現方法が難しいものでもある訳です。
何故なら心そのものが肉眼で確認できるものではなくて、目に見えず手で触れられない『心』であるが故に、心を伝える側と、伝えられる側との意識の一致が困難である…と言えるからであります。
心の法則についての詳しい内容は、新創世記・第10巻《国霊・器霊学》にて語られておりますので、此処では心の法則を皆さんに理解しやすい三つの形代に例えて説明してゆきます。
人間の心の中には大切な宝物が三つ程あります。
この三つの宝物は実に素晴らしい力(心の作用)を有しておりますが、ひとたび使い方を誤ると大変な痛手を負うことにも成り兼ねません。
だからこそ慎重に取り扱わなければならないのです。
そうした慎重な扱いが必要な、心の中の三つの宝物の一つ目は『御統の珠…みすまるのたま』であります。
『御統の珠』とは、多くのものが一つに統まる(集まる)という不思議な珠で、まるで磁石が磁力を発揮するかの如く、同じ類のものを引き寄せる力があるのです。
それとともに類で無いものは反発し、速やかに遠ざける作用が現れてまいります。
同じ様な個性を有した人同士が、何故か廻り逢ってゆく奇跡は、誰もが心の中に有するところの心の法則(類が類を呼び、類で無いものは反発する)という『御統の珠』の作用に起因しているのであります。
この『御統の珠…みすまるのたま』には、想念によって在りと凡ゆる物事を創造(想像)してゆく力があり、貴方が想像した想い(念)と同じ類の想い(念)を引き寄せてくることになる訳です。
プラスの心を想えばプラスの環境と境遇が現われて来るし、マイナスの心を思えばマイナスの環境と境遇が現われて来る…。
「私はプラスの心(思い)を望んでいるのにマイナスの環境ばかりがやって来る」という方は、よくよく自身の心を振り返って致だきたいと想います。
プラスの心を望みながらも、心の何処かにマイナスの心を捨て切れない何かがあるのではないでしょうか?
また積極的プラスの思考を試みながらも、心の何処かで「自分には無理なんじゃないかな…」等と、不安や恐怖心で自身の足止めをしてはいないかどうかを…。
貴方が本当に幸せに成りたいのであれば、自分自身の物事で悩んでいる時間全てを、他の誰かに幸せを与える方法を考え、其れを実行に移すようにしてみて下さい。
そうすれば貴方の心の中にある『御統の珠』から、愛の想いが湧き出して来て、同じような愛の想いに満たされている人たちとの出逢いを、自ずと果たしてゆくことになるでしょう。
地上にて心の修養を積んでいる人間たちに、マイナスの心が全く無いとは言い切りませんが、人間は本来プラスの心のみを持っている筈なのです。
それとも貴方は、恨みや憎しみや嫉妬などのマイナスの心と言えるものが無ければ生きて行けませんか?
そうではないはずです。
元々そうしたマイナスの心と言えるものは、あってはならないものなのです。
仮にマイナスの心が有るとしても、総ての生命の向かうべき方向は、限りなく実相の光(プラスの心)に近づいてゆく方向ではなかったでしょうか…。
総ての生命の輪廻転生は、プラス・マイナス・ゼロにすることが最大の目的ではなく、更にプラスの心(光明の中)へ昇華してゆくことである筈です。
そうであるならば詰まらない悩みなどは一早く反省し修正し、教訓にして捨て去り、その後の生命道を積極的プラスの心で生きて下さい。
そう願わずには居られません。
次に心の中に有る二つ目の宝物とか何であるかと言いますと、これは『草薙の剣』であります。
貴方が心の中に描いた理想を、この地上に発現してゆく為には、日頃あっちこっちに漂い、浮ついている意識を、貴方の理想という名の夢の一点に集中させてゆかなくてはなりません。
分散している意識を夢追いに集中させてゆくとき、貴方の心の中にある御統の珠は、一本の剣を創造して来ます。
其の剣こそ『草薙の剣』であり、貴方は此の剣を持ちて勇ましく自らの運命を開拓してゆかなければなりません。
夢追いの旅路で困難な障害が立ち塞いで来た時こそ、貴方は心の内を顧みて、三つの宝物の一つである『草薙の剣』を手に取りて、其の剣を天高く掲げて、直面する障害を切り裂いて、貴方の夢追いを断行して下さい。
立ち塞ぐ障害は『草薙の剣』の光明の強さに道を譲らざる負えないのです。
真実の光の剣の前には迷妄(仮初めの姿)の障害などは、其の存在すら許されてはいないのです。
この草薙の剣は、貴方の言葉であり行為であり、夢(愛)に向かってゆくところの積極的な姿勢でもあります。
この剣は諸刃の剣(両辺に刃がある剣)である為、使い方を誤ると相手を傷付けるどころか、自分自身をも傷付ける危険な剣と成り兼ねません。
それ故に剣の腕前には実力の差が明確に現われ、凡人も居れば達人も居るということが言えると思います。
要するに勇気というものが単なる蛮勇(野蛮な勇気)であってはならないし、力自慢の為のものでもない…ということであります。
勇気が勇気として成り立つ為には愛が必要であるし、其の愛を凡ゆる方向(環境)に順応(適用)させる為には智恵が必要になるからであります。
この『草薙の剣』(勇気の剣)は別名を『活人剣』ともいい、正しく人を生かしてゆく為に、総ての生命に与えられた光の宝物であると言うことです。
さて心の中の三つ目の宝物とは何であるかと言いますと、自己を磨く為の『研磨の鏡』であります。
人間の心の中には自己を磨く為の鏡が一つずつある訳で、貴方が自身の心の中を顧みたなら、其処には現在只今の貴方の心境が其のまま映し出される訳で、誤った心が蔓延っていたならば、自己の内なる善の心(プラスの心)に厳しく修正を迫られることになります。
人間は真実の愛が一体何であるかが掴みきれない存在であるならば、日々よく心の鏡を顧みて、自己の発した言葉や行為が、他の人たちを傷付けるようなものではなかったかどうかを、謙虚に反省し修正して、其れを一つの教訓として、更に充実した人生(夢追い)を歩んでゆくべきではないかと思うのであります。
そして常日頃から心の鏡を磨いておく必要があります。
放っておくと鏡の表面が曇ってしまい、正確な判断が出来なくなってしまうので、心して気を付けて致だきたいと想います。
この研磨の鏡は貴方たちの心の中から外界に向けてセットされているのであって、此処にもまた心の法則が働いてまいります。
ただし研磨の鏡に関しては、自己反省・自己研鑽ということで、まず自己を中心に解釈してゆかなくてはなりません。
心の法則を深く知れば知るほど、起こって来た問題の責任が自己にあるということが、徐々に判ってくるからです。
愛ということに於いては相手を中心に相手の立場に立って考える必要がありますが、反省ということに於いては、自己反省から入ってゆかねばならないでしょう。
それは、こういう事なのです。
例えば貴方がAという人に、トゲのある言葉や誤解をされるような行為をしたとします。
その時トゲのある言葉や行為はAさんに向けて一定の念の力で飛んで行く訳です。
しかしAさんは日頃から心の鏡を綺麗に磨いていたとします。
するとAさんの心の鏡はピカピカであって、貴方が発したマイナスの念を、反射鏡のように跳ね返してくる訳です。
すると其の跳ね返されたマイナスの念は何処へ行くかと言うと、同じマイナスの念を抱いている人の元へ行かざる負えないのです。
類が類を呼ぶ訳です。
つまりトゲのある言葉や行為を発した貴方の元に帰ってくる訳です。
またこうしたケースも考えられます。
貴方はAさんにマイナスの念を発しました。
そのマイナスの念はAさんの心の鏡に反射されてBさんへと飛んで行った…。
そしてBさんと貴方との接点に於いて、Bさんからトゲの立った言葉や行為が、貴方に帰ってくるということも有り得ます。
廻り巡って来るのです。
悪しき言葉や行為は廻り巡って貴方の元に帰ってくる訳です。
その時に相手を責める前に、先ず自己の心の鏡を顧みて、誰かに対して危害を及ぼす事は無かったかどうかを、つぶさに自己点検してみる必要があります。
こうした心の鏡を顧みる習慣が身に付いている人は、発作的(感情的)にカッとなって心を荒立てたりはしないでしょう。
そして直ぐに相手の心と和解してゆかれることでしょう。
そうした人の周囲には争い事が徐々に無くなって、やがて平和な環境が訪れることは言うまでもありません。
御統の珠・草薙の剣・研磨の鏡…。
此れら三つの宝物は、もちろん例えではありますが、古来より連綿と語り伝えられた地上人間の大切な尊い精神であります。
現在『御統の珠』は八尺の勾玉(やさかのまがたま)として東京都渋谷区の明治神宮に…。
『草薙の剣』は都牟刈の太刀(つむがりのたち)として愛知県名古屋市の熱田神宮に…。
『研磨の鏡』は八尺鏡(やあたのかがみ)として三重県伊勢市の伊勢神宮に…。
それぞれ奉納されております。
元来、神社仏閣は、受験祈願や結婚祈願などをする所ではなく(尤も願いが純粋であり真剣であれば言葉の力に神々が感応して叶えられることも有り得ますが)、本来の人間の正しき心(精神)を見つめ直す場所であり、神々の御加護・御教導に対する感謝をする場所であり、忙しい暮らしの中で心というものが見失いがちであるため、せめて初詣ぐらいは心を見つめ直そうと神社仏閣を訪れ、神官や僧侶たちから心の正しい在り方や生き方などを、聴聞(心の話を聞く)する為に訪れる所なのであります。
貴方の人生(夢追い)の途路にて凡ゆる困難に出会い、時には心を閉ざしてしまうこともあるかも知れません。
現在すでに心を閉ざしている方も居らっしゃるでしょう。
そうした人たちの為に、閉ざした心を開く為の幾つかの方法を考えておかねばなりません。
先ず最初に貴方は笑顔を取り戻すことです。
笑顔というものは習慣付けることによって、何時しか自然に微笑みが浮かぶようになるものなのです。
笑顔を忘れてしまうと顔が固まってしまって、笑おうにも頬が突っ張ってしまって、思うように笑えなくなってしまいます。
貴方は人と話をする時に、相手が渋面であるよりは微笑んでいてほしいと思いませんか?
笑顔が素敵な人とこそ仲良くなりたいと思いませんか?
そうした人とこそ仕事なり学業なりを共にしたいと思うでしょう…。
そうであるならば貴方は相手のた為にも笑顔を降り注ぐ人であって下さい。
笑顔は習慣付けることで徐々に取り戻してゆくことが出来ます。
朝、家を出掛ける前に、必ず一度は鏡を覗いてみて下さい。
其処に写った顔は、どのような顔ですか?
素晴らしく微笑んだ顔が写っていたならOKです。
それとは逆に悲しげな顔や苦しげな顔が写っていたなら、そのままひととき目を背けず、少しでも自分で納得が行くような笑顔を鏡に写してから出掛けて下さい。
渋面を心に印象することなく、微笑みを心に印象するように努力することです。
街へ出ると沢山の人間が歩いています。
全ての人は一様に心に鏡をもっている訳です。
ですから貴方が笑顔で人に接すれば、必ず相手も笑顔で対応して下さるでしょう。
貴方が渋面で人に接すれば、相手も何処となく渋面を装うでしょう。
貴方の心が相手の心の鏡に写し出されて、相手の顔面を通して、貴方の顔付きを教えて下さるのです。
心というものは以心伝心。
特に親しい人たちとは見事に心が繋がってゆくものなのです。
『立ち向かう人の心は鏡なり…』
聖訓は此ように語っているのです。
また心を閉ざしてしまった方は、物事を全て悪く解釈する傾向にあります。
物事には必ず二面性または多面性があるにも関わらず、悪くなる方向にばかり考え過ぎるのです。
どうして良くなる方向に考えてはいけないのか、貴方は正確に答えられますか?
貴方の過去の体験からのみ判断していませんか?
貴方の未来は常に新たな日々が始まり続けるのです。
過去が不運であったならば、これから始まる1日1日に於いて、幸せな生き方をして行けばいいではないですか…。
ようするに未来に対する明るい希望を描け…と言うことなのです。
時として襲い掛かる不安や恐怖を投げ捨てて、明るい希望や勇気の想いに変換して、常に光に向かって歩み続けて致だきたいと想います。
人間は決して生まれながらの悪人ではなく罪人でもなく、本来は全ての人が善人であります。
悪意を企む人たちは、こうした心の法則を単に知らないだけなのです。
彼らも他者に危害を加えたなら、いずれ自らの環境や境遇となって帰って来て、自らの発したマイナスの心に、自己自身が苦しむことになると本当に自覚したならは、決して悪意は抱けなくなってしまうのは当然で、愛の基に愛のままに生きてゆくようになるのであります。
貴方は善人として生まれ、夢を深めて、一人でも多くの人たちに本当の安らぎを与える為に、こうして生きている筈なのです。
どうか自信を持って生きて下さい…。
06 実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】
新創世記・第5巻(光の道標)詩編の中の『夢追い郷里』という長い詩の中程の辺りに…
繁栄と調和の理念に順序あり、繁栄が主として先走り、調和は従として補いゆく…
〈中略〉
何方も尊い理念であるが、繁栄が主であり、調和が従である…
…という箇所がありますが、詩の体形としては此れだけでは十分な説明が成されてはいないのであります。
此処での意味合いは創造というものが、積極的に展開される段階での繁栄と調和の働き掛けの違いによる順序なのであります。
創造作用の初期の段階に於いては、即ち夢なら夢に対する意識が未だ幼なき段階に於いては、大いなる母なる愛にて、暖かく包み育んであげる必要があるのです。
草花に例えるならば、草花の種を単に転がしておくだけでは成長しません。
やはり草花の種は大地の中に埋めてあげる必要があります。
母なる大地の愛によって包んで、暖かく育んであげることによって、草花の種はスクスク生長してゆくのであります。
幼き種の段階では、どうしても大いなる愛が必要なのです。
そうして大いなる母の愛を無心に得んが為に(母なる大地と一体である自覚を得んが為に)種は先ず土の中に深く広く根を下ろします。
そして母なる大地と一体であることの安心感(やすらぎ)を得て、始めて地上に芽生えて来るのであります。
これは人間に於いても十分に当て嵌まることであるのです。
いや寧ろ人間であるからこそ納得がいくことでもあります。
大いなる光が一つの意志(夢)を有して地上に天降って来る当初は、やはり母なる愛(母胎)に宿ってくるわけです。
そして十月十日という長い月日を掛けて母なる愛に育まれてゆくのであります。
そうして生誕後も、現代では約二十年の年月を掛けて、両親(特に母親)の愛の下に育てられてゆくのであります。
こうした神秘を皆さんは考えてみたことがあるでしょうか…。
人間は他の動植物たちとは違い、実に長い年月を掛けて育てられているのです。
どんなに立派な魂であっても赤ん坊として生まれた当初は、他の全ての生命たちと同じスタートラインから始まるのです。
転生輪廻の下に新たに生まれ変わって来たとしても、既に時代は移り変わり、生活形態も大きく変わり、言葉も時代常識も違っているでしょう。
此のことを分かりやすく説明するならば、いま貴方が有している知恵や愛が、どんなに優れていたとしても、日本人である貴方が、アメリカなりフランスなりドイツなどで、その知識を発揮しようとしたところで、先ず言葉が違う、生活形態が違う、国境を越えた常識の違いがある…。
こうした中で貴方が知恵と愛とを他者に伝えてゆくためには、その国(環境)に合った言葉や社会風土を学ばなければならないでしょう。
この基礎的努力なくしては、貴方の素晴らしい智恵と愛とを伝えてゆくことが出来ないのであります。
そのためにも其の国(環境)に於いての基礎的知識を得んとする行為こそ、先程の草花の例えに語ったような、草花の種が大地の中に深く広く根を張る行為と同じであると言えるのであります。
此処で気を付けなければならないことは、貴方の本来の夢(理想)と現実(環境)との違いを、どのように処理してゆくかと言うことです。
現代では往々にして理想と現実のギャップが、大きく掛け離れているようですから、貴方の環境の中で学んでゆく物事が、真実の愛の視点で眺めた時に何が正しく何が間違っているのかを、先ずは判別しなければなりません。
そして正しき愛の想いを其の環境の中に於いて、どのように発現してゆくべきかは、やはり其れなりの智恵が必要なのです。
其処に真実の愛とは如何なるものであるかを、進んで探究する姿勢が望まれてくるのであります。
総ての生命の輪廻転生の最大目的とは真実の愛の探究に他なりません。
総ての生命は一人残らず愛の探究者なのです。
真実の愛を高め深め広げる為に、其の方法論として在りと在らゆる『夢』が生まれて来たのであります。
貴方は貴方の夢を、其の夢の純粋性を、何処までも高め深め広げ続ける中に、真実の愛との出逢いを幾多となく実体験してゆくことになるでしょう。
貴方の夢は、貴方の本当の夢(使命)とは、貴方自身の個性の中に其の秘密が隠されているのであります。
貴方は貴方の内に具わっているところの個性を、もはや隠している必要はありません。
貴方の個性は貴方だけの大切な個性でありますが、大いなる神霊界(こころ)の大宇宙の中の一つの尊い役割としての、貴方に充てがわれた(貴方自身が選択して来た)貴方だけの個性であるのです。
ですから全生命の更なる繁栄の為に、貴方は貴方の個性を最大限に発揮する必要があるのです。
決して控え目に小さくなることが謙虚なる姿勢ではなく、全生命の繁栄の為に貴方の個性を最大限に発揮することこそ、大いなる神(大意識)に対しての本当の謙虚なる姿勢ではないですか…。
一人二人の魂の退歩が、全生命の繁栄の歩みに対しては、却って高慢な行為であるのです。
罪という言葉を仮に想定するならば、個生命の発現するべき個性(使命)を包み隠す行為こそ罪である訳です。
罪の語源は正しく『つつみ』隠す行為であり、『つつみ』の『つ』の字が詰づまって罪(つみ)と言うのであります。
話は前後しますが、一人一人に具わった個性(夢)が、揺るぎなき自信となりて自己展開してゆけるように成るまでには、どうしても母なる愛が必要であります。
日本という国は昔から『和』を尊ぶ国として歴史を綴られて来た訳ですが、古くから此の日本のことを『大和の国』として其の精神を『大和魂』と言ったり、日本女性の精神表現を『大和撫子』などと言ったりしておりましたが、こうした精神は日本の気候風土が、かなり大きく影響しているようです。
日本という国は誠に女性的な国体であり、女性的な清らかさと美しさと、四季折々の彩りとを見事に融和(融けあい和する)してゆける『調和国家』とも言えるのであります。
日本を取り巻く自然環境を、人々は其のまま生活に生かして、時には『誠心』とし、時には『善義』の良き見本とし、時には『優美』の心として、自然界の奥底に流れる形を超えた心(理念)を、時代精神として展開してまいりました。
そうした意味合いからも、日本民族は非常に精神性(霊性)に優れた民族であると言えると思います。
こうした調和の心が日本の食生活にも浸透して来ております。
和食というと、まず思い出される故郷の味として『鍋料理』が挙げられます。
様々な材料を鍋の中に詰め込んで、グツグツと十分な時間を掛けて煮込む訳ですが、一つ一つの具(穀物や野菜など)を鍋を基盤として結び合わせて、それぞれの具が持っているところの味わいを、最大限に醸し出し融和してゆくことにより、香り高く親しみのある不思議な味わいが出てくるのであります。
其の時に互いの具の味わいを完全に結び合わせてゆくために、どうしても必要となるものが『熱』(十分に時間を掛けて煮込む)であります。
鍋料理という一つの全体としての味わいを最高のものとするために、一つ一つの具に宿るところの個性(具そのものの味わい)を最大限に発揮するところに、神秘的な深い味わいが醸し出されて来るのであります。
和食のもう一つの特徴としては、凛とした気品を観ずる『膳料理』を挙げることが出来ます。
膳料理とは、四角あるいは丸い『御膳』の上に、お椀や小皿を並べて一品一品、個別に盛り付けて出される料理でありまして、古くから貴族や上流武家などで親しまれて来たようであります。
こうした膳料理のように、一品ずつ盛り付けられる料理が、はたして大和の心を反映しているのであろうか…と思われるかも知れませんが、実は膳料理こそ真に大和の心を投影しているものであるのです。
それは食物には個々に其の材質としての個性(味わい)が具わっている訳ですが、其の個々の味わいを尊重しながら、全体(御膳)としての調和を保っているからです。
一つ一つの食物には其の食物なりの歴史(生長の過程)があり、その過程の中にて大自然の大いなる愛を繰り返し受け続け、食物たちは育まれた愛の恩恵に深く感謝して、その恩恵に報いる為にも食物としての愛の想い(味わい)を最大限に発揮するべく、料理人の前に縁を以って集まって来たのであります。
それらの個々の食物の愛の想いを決して覆い隠すことなく、むしろ食物の味わいを尚一層、引き立てる為の工夫をし、一品一品の味わいを全体(御膳)の中での一つの役割(使命)として、個性(味わい)を光らせているのであります。
調和とは『結び』であり、かつて日本では『むすび』という言葉を『産霊』と書き表しておりました。
産霊(むすび)とは、霊が産まれると言うことですが、この場合の霊とは本来の人々にとっての『喜び』『幸せ』を意味しており、箇々別々であったものを一つに融合してゆくことにより、心の一体観から湧いてくる『喜び』に、幸福を深く観じるさまを表現しております。
この結びに伴う喜びを、単に料理人のみが楽しむことなく、料理を食する人たちに結びの喜びを委ねる意味合いから、あのような膳料理の形態が現れてきたのであります。
もう一つ膳料理で大切なものと言えば、やはり一品一品の配膳ではないでしょうか…。
実は膳料理の配膳の基本は大自然の縮図であるのです。
それは寺院などの庭園が自然の風景を縮図化しているように…。
また俳人が五・七・五の17文字の中に自然を凝縮して表現しているように…。
詩人や画家が詩の体形やキャンパスの中に大自然(宇宙)を集約し表現するように…。
膳料理に於ける小皿の配置も大自然の縮図なのであります。
専ら其の地方の自然の特徴を生かして配膳される訳ですから、配膳された膳料理から、其の地方の特色を逆に洞察することも可能であるのです。
貴方たちの夢追いも、如の此く大自然(心の宇宙)を個々の夢(小皿)に表現して、全体(御膳)としての個々の役割(味わい)を最大限に発揮する為に、個性を純粋化し愛を深め広げて、見事な調和を試みてゆくことこそ、その後の大いなる繁栄への始まりを迎えることになるのです。
こうした心の基盤とも言える、全体の為の個性の確立(自己確立)がシッカリとしていればいる程、より多くの生命たちに対して、より素晴らしい愛を伝え広げてゆけるのであります。
個性の確立には母なる愛が必要であるけれども、自己確立の過程に於いての、他の生命との積極的な結び(調和)の想いと行為とが、とてもとても大切な心掛けであるのです。
『愛は愛を呼ぶ』と言います。
愛深き愛の供給者であればある程、多くの愛の光に包まれて、心の調和を保ち続けてゆけるのであります。
どうか皆さんの夢追いが、他の多くの人たちの幸福に繋がるようなものとして、愛の下に叶えられますことを深く深く祈念いたします。
06 実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】
新創世記・第5巻『光の道標』(詩編)の中に「光の故郷」という、6ページに及ぶ長い詩が載せてありますが、この詩体は古事記の冒頭(天地の初発の時…)から伊邪那岐神と伊邪那美神の二柱の神による国生みまでの要約を、暫定的に詩体として纏めた内容であります。
(新創世記第5巻、P7〜参照)
この光の故郷の詩体は、実は総ての創造作用のルーツを顕したものなのです。
古事記の神話に於ける天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神からはじまって、伊邪那岐神・伊邪那美神の国生みに至る内容の根本開示は、創化作用と創造作用を神名を通して語り掛けたもうたものなのです。
勿論、古事記の神話に掲げられた名だたる神々は、実在される神々でありまして、現在では数々の転生光臨輪廻を繰り成され、役職名として残された御神名もあれば、御神名そのものが御神体であらせられる神々も居らっしゃいます。
此処に「光の故郷」の詩体を其のまま掲載するスペースは最早ありませんので、この詩体の解説を兼ねて『創造』ということについて、お話をさせて致だきたいと思います。
まず『創造』ということに於いて、最も身近な存在である人間の肉体を例にとってみると、体内の内臓(心臓や肺臓、胃腸や膵臓肝臓など)を形作っているものが「細胞」であり、この細胞を形作っているものが「分子」であり、分子を形作っているものが「原子」であり、この原子を形作っているものが「素粒子」であると、現代の最先端をゆく物理科学の領域では認識されております。
しかし此の素粒子なるものには更に微細なものが発見されておりますが、こうした最小単位の物質は何も無い空間から突如として現れて来るもので、また突如として消えてしまうものでもあるのです。
最小単位の物質は何も無い空間から突然にして顕れ、素粒子となり原子を形造り、分子に組み合わされ、細胞を組織して人間の肉体を顕しめてくるのであります。
すると人間は何も無い空間から生まれて来たことにもなります。
肉体に限らず全ての物質に於いても、その元を辿れば原子であり、原子を形造っているものは、やはり素粒子であるということで、この地上に存在する全てのものは無から生まれ、やがて時を経て無に帰ってゆくことになる訳です。
此処で考えなければならないことは、なぜ何も無い空間から、物質や肉体が形造られてくるのか、なぜ何も無いのに一定の姿を保ってくるのか…。
偶然に生じてくるにしては、どの人間を見渡してみても、個性こそ違うが同じ顔形、両手両足、同じ肉体形式を採っている…。
偶然に出てくるのならば、もっとバラエティーに翔んでいるのではないであろうか…と考えられますが、人間は一様に同じ形態を採っているのであります。
七十数億の人間が同じ姿形で生まれ育って成人してゆきます。
其処には雛形(設計図)のような、人類共通の人間理念があるのではないであろうか…と、そう観ぜざる負えません。
一般的(地上世界的)に見て、何も無い所からは何も出て来るはずは無いにも関わらず、素粒子等の微粒子は確かに無から生じて来て、凡ゆる事物へと組み合わされて、人類共通の姿形となって現れてくるわけです。
そうしてみると遺伝子論の中に親から子へ伝わる何かがあるとしても、肉体細胞そのものが本当に子孫に伝わっているのか…。
こうした疑問が出て来ても可笑しくはありません。
本来、何も無い状態から生じて来た肉体細胞であるならば、その細胞を創り出す為の何らかの意識が、必ず其処には必要となって来るはずです。
つまり肉体細胞としての遺伝子そのものが親から子へ遺伝しているというよりも、心(想い)そのものが親から子へと伝わり、親の心(想い)が子の心(想い)の中から心の具現力に従って、まさに遺伝したかの如く似通った形態にて、子をして発現してくるということであります。
この心(想い)というものを深く深く探ってゆくと、移り変わる現象(全ての物質や肉体)の中に普遍なる実在(理念)を認めざる負えなくなります。
何故なら物質や肉体は時が過ぎれば、やがて朽ち果て消滅してゆくわけですが、人類共通の理念は例え時代が移り変わろうとも、一定した姿形を保って現れてくるからであります。
それは肉眼には決して見えない心の奥底なる世界に、総ての根本とも言える高貴なる理念が、確かに実在しているということなのです。
物質的な形ではなく、正しく理念として気高き心として、総てが其処に具わっている高次元世界であります。
この高次元世界すなわち実相世界より、地上世界に創造的意識が天降ってくる際に尚一層、素晴らしい芸術作品と成るように本来は一つの光の世界から、二つの理念が顕われて来たのであります。
その一つは『繁栄』であり、もう一つは『調和』であります。
繁栄の理念は、時間空間の座標軸に当て嵌めるなら、過去・現在・未来の時の流れを示す時間の縦軸で表すことが出来て、軸方向力としては宇宙に向かって何処までも伸びてゆかんとする『遠心力』であり、この理念の下に地上の生命たちは、上方へ宇宙へと生長してゆくのであります。
そして其れは陰陽の『陽極』を司る、理念でもあるのです。
なぜ地上の生命たちが繁栄の理念の下に向上を望み、大空へ宇宙へと心が魅かれるのかと言いますと、其処には太陽を始めとして、希望に満ちた光たちが存在する事を、全ての地上生命の潜在意識内で既に知っているからであります。
調和の理念は、時間空間の座標軸に当て嵌めるならば、何処までも延べ広がる空間の横軸で表すことが出来ます。
軸方向力としては総ての生命を宇宙に漂う迷い子としないために、正に命綱的な力で繫ぎ止める『求心力』であり、この理念の下に地上の生命たちは個と個の絆を深め、生かし合い育み合って、やがて一つに纏まってゆくのであります。
そしてそれは陰陽の『陰極』を司る理念でもあるのです。
なぜ地上の生命たちが調和の理念の下に一つに結ばれてゆかんとするかと言いますと、其処には愛の原理があり、それは生命たちの魂の奥底に刻まれた、心の故郷への懐かしい薫りを確かに覚えているからであります。
この二つに岐れた理念が、それぞれに最高作品とも言える姿で、天降って顕われて来たものが、実は地上に生きている人間の男性(繁栄)と女性(調和)であります。
人間の本来の姿は、決して肉体そのものではなく、其れに付随する感覚器官そのものでもなく、其れらを通して流れ出してくる生命エネルギーとしての理念そのものなのであります。
生命エネルギーとしての各々に個性を持った理念そのものが、転生輪廻を繰り成して肉体に宿り、元なる個性を有する理念に、限りなく純粋さを取り戻してゆく為の、言わば魂修養をしているとも言えるのであります。
このことは次のように例えられます。
皆さんは空に浮かぶ雲を見上げたことがあるでしょう…。
太陽の光が空に浮かぶ雲に当たり、其の雲の影が地上に映ります。
影は雲の流れに添って、ゆっくりと移動して行きますし、雲が形を変えれば影も形を変えるのですが、影そのものの形を変えようと、どんなに思い悩んでも、雲自身が形を変えない限り、雲の影は決して形を変えはしません。
これは何と人間の心の姿に似ていることでしょうか…。
影が環境であり、雲が心のようにも映ります。
そして太陽の光が人間の心を生かす生命エネルギーのようです。
人間は兎角、自身の環境(影)の苦しさに思い悩む存在でありますが、其の環境(影)を映し出している心(雲)を入れ換えて改めないことには、何の解決の糸口も見い出せないのです。
人生は宇宙(自然)の縮図でもあり、宇宙もまた人間の縮図であります。
心は極小(ミクロ)であり極大(マクロ)です。
何処へも片寄らない心を、この大宇宙(自然界)は示しておられるのであります。
一転して映画に例えるならば、映画などは先ず映し出す光源があり、其の光源の光がフィルムを通って銀幕(スクリーン)に映し出され、映像としての人や物体が、恰も実在のように動く訳ですが、其の映像を見ている貴方が、貴方の思うままにストーリーを展開したいと思い悩んだところで、映し出されたスクリーンの映像は、決して変えることが出来ない訳です。
其の映像(環境)を真に修正する為には、やはり元なるフィルム(心)を修正しないことには、決して変わっては行かないのであります。
本来の純粋理念というものは、この映画の例えのフィルムを指していた訳ですが、人類の永い長い転生輪廻を繰り成してゆくうちに、地上(スクリーン)のみを人間の全てだと思い違いをして苦しみ悩み迷う為に、フィルム(本来の理念)とスクリーン(地上環境)との間に、迷いの思念が狭霧の如くモクモクと沸き上がり、其処にもう一つの歪んだフィルターを作り出してしまったのです。
これが謂わゆる『想念帯』とも言われる部分に蔓延った、人類共通の歪みのフィルター(間違った概念)である訳です。
俗に言う常識というものの中には、かなりの領域で単に利己主義を押し通す為だけの多数意見からくる常識が多く、本来は納得が行かない物事であっても、多数意見に従わざる負えないような不合理な常識が多くあります。
このように、人類全体が精神病に感染してでもいるかのような歪んだフィルターが、映画のフィルム(理想)とスクリーン(現実)との間に蔓延っている以上、元なる理念(フィルム)がどんなに気高く純粋なる愛を体現していたとしても、間違った人類共通的概念に歪められてしまって、スクリーン(地上環境)上では、平和を望みながら争いの絶えない歴史が、現在もなお続いているのであります。
この歪められてしまったフィルターを、人間は限りなく浄化(純粋化)してゆかなければなりません。
浄化作用を進めてゆく為には、やはり正しい方向と其の正しい方向へ向かうべく正しい方法とを、先ず一人一人が確かに掴むべきではないでしょうか。
その正しい方向こそ人間(生命)が本来、岐れてきた、たった一つの故郷であり、創化作用の原点である理念の世界を通した奥なる、光の故郷(実相)であるのです。
現実(形)のみを気にして其れにとらわれて、其の現象(現実)を創り出している理念(理想)を忘れてしまっているところに、先ず第一としての反省項目が上がって来るのであります。
形の優劣のみを気にして流行りに右往左往しているところに、追い求めるべき理想(夢)を見失う原因があるのであります。
創造作用の真実は正しく、描かれた理想が理念の世界から天降って来て、やがて現象(現実)世界へと投影されて、凡ゆる形に組み合わされてゆくのであります。
そうである以上は、人間は更に更に心の世界の探求に深く身を投じてゆくべきなのです。
理念(理想)こそが人間の本来の姿である以上は、繁栄と調和なる理念の下に、何処までも純粋で気高き夢追いを心掛けてゆくべきなのです。
後々、新創世記と言われるであろう21世紀の光に満ちた時代は、貴方たち夢追い人らが創り上げてゆく、未来への新たな創世記でもあるのです。
どうか心して貴方は貴方の夢を追い続けて致だきたい…。
総ての夢を実現する鍵は何時の時代も、繁栄と調和の理念の基による、愛(結び)と賛嘆(喜び合い)とによるのです。
そして総ての夢追い人たちが帰り着くべき郷里とは、愛の理念(想い)が満ち溢れた懐かしき光の故郷であります。
06 実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】