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それでは【風の道標】の終極として、此処では心の法則について語ってゆくことになります。
一言で心と言っても、其の発言は多種多様であり、誠に表現方法が難しいものでもある訳です。
何故なら心そのものが肉眼で確認できるものではなくて、目に見えず手で触れられない『心』であるが故に、心を伝える側と、伝えられる側との意識の一致が困難である…と言えるからであります。
心の法則についての詳しい内容は、新創世記・第10巻《国霊・器霊学》にて語られておりますので、此処では心の法則を皆さんに理解しやすい三つの形代に例えて説明してゆきます。
人間の心の中には大切な宝物が三つ程あります。
この三つの宝物は実に素晴らしい力(心の作用)を有しておりますが、ひとたび使い方を誤ると大変な痛手を負うことにも成り兼ねません。
だからこそ慎重に取り扱わなければならないのです。
そうした慎重な扱いが必要な、心の中の三つの宝物の一つ目は『御統の珠…みすまるのたま』であります。
『御統の珠』とは、多くのものが一つに統まる(集まる)という不思議な珠で、まるで磁石が磁力を発揮するかの如く、同じ類のものを引き寄せる力があるのです。
それとともに類で無いものは反発し、速やかに遠ざける作用が現れてまいります。
同じ様な個性を有した人同士が、何故か廻り逢ってゆく奇跡は、誰もが心の中に有するところの心の法則(類が類を呼び、類で無いものは反発する)という『御統の珠』の作用に起因しているのであります。
この『御統の珠…みすまるのたま』には、想念によって在りと凡ゆる物事を創造(想像)してゆく力があり、貴方が想像した想い(念)と同じ類の想い(念)を引き寄せてくることになる訳です。
プラスの心を想えばプラスの環境と境遇が現われて来るし、マイナスの心を思えばマイナスの環境と境遇が現われて来る…。
「私はプラスの心(思い)を望んでいるのにマイナスの環境ばかりがやって来る」という方は、よくよく自身の心を振り返って致だきたいと想います。
プラスの心を望みながらも、心の何処かにマイナスの心を捨て切れない何かがあるのではないでしょうか?
また積極的プラスの思考を試みながらも、心の何処かで「自分には無理なんじゃないかな…」等と、不安や恐怖心で自身の足止めをしてはいないかどうかを…。
貴方が本当に幸せに成りたいのであれば、自分自身の物事で悩んでいる時間全てを、他の誰かに幸せを与える方法を考え、其れを実行に移すようにしてみて下さい。
そうすれば貴方の心の中にある『御統の珠』から、愛の想いが湧き出して来て、同じような愛の想いに満たされている人たちとの出逢いを、自ずと果たしてゆくことになるでしょう。
地上にて心の修養を積んでいる人間たちに、マイナスの心が全く無いとは言い切りませんが、人間は本来プラスの心のみを持っている筈なのです。
それとも貴方は、恨みや憎しみや嫉妬などのマイナスの心と言えるものが無ければ生きて行けませんか?
そうではないはずです。
元々そうしたマイナスの心と言えるものは、あってはならないものなのです。
仮にマイナスの心が有るとしても、総ての生命の向かうべき方向は、限りなく実相の光(プラスの心)に近づいてゆく方向ではなかったでしょうか…。
総ての生命の輪廻転生は、プラス・マイナス・ゼロにすることが最大の目的ではなく、更にプラスの心(光明の中)へ昇華してゆくことである筈です。
そうであるならば詰まらない悩みなどは一早く反省し修正し、教訓にして捨て去り、その後の生命道を積極的プラスの心で生きて下さい。
そう願わずには居られません。
次に心の中に有る二つ目の宝物とか何であるかと言いますと、これは『草薙の剣』であります。
貴方が心の中に描いた理想を、この地上に発現してゆく為には、日頃あっちこっちに漂い、浮ついている意識を、貴方の理想という名の夢の一点に集中させてゆかなくてはなりません。
分散している意識を夢追いに集中させてゆくとき、貴方の心の中にある御統の珠は、一本の剣を創造して来ます。
其の剣こそ『草薙の剣』であり、貴方は此の剣を持ちて勇ましく自らの運命を開拓してゆかなければなりません。
夢追いの旅路で困難な障害が立ち塞いで来た時こそ、貴方は心の内を顧みて、三つの宝物の一つである『草薙の剣』を手に取りて、其の剣を天高く掲げて、直面する障害を切り裂いて、貴方の夢追いを断行して下さい。
立ち塞ぐ障害は『草薙の剣』の光明の強さに道を譲らざる負えないのです。
真実の光の剣の前には迷妄(仮初めの姿)の障害などは、其の存在すら許されてはいないのです。
この草薙の剣は、貴方の言葉であり行為であり、夢(愛)に向かってゆくところの積極的な姿勢でもあります。
この剣は諸刃の剣(両辺に刃がある剣)である為、使い方を誤ると相手を傷付けるどころか、自分自身をも傷付ける危険な剣と成り兼ねません。
それ故に剣の腕前には実力の差が明確に現われ、凡人も居れば達人も居るということが言えると思います。
要するに勇気というものが単なる蛮勇(野蛮な勇気)であってはならないし、力自慢の為のものでもない…ということであります。
勇気が勇気として成り立つ為には愛が必要であるし、其の愛を凡ゆる方向(環境)に順応(適用)させる為には智恵が必要になるからであります。
この『草薙の剣』(勇気の剣)は別名を『活人剣』ともいい、正しく人を生かしてゆく為に、総ての生命に与えられた光の宝物であると言うことです。
さて心の中の三つ目の宝物とは何であるかと言いますと、自己を磨く為の『研磨の鏡』であります。
人間の心の中には自己を磨く為の鏡が一つずつある訳で、貴方が自身の心の中を顧みたなら、其処には現在只今の貴方の心境が其のまま映し出される訳で、誤った心が蔓延っていたならば、自己の内なる善の心(プラスの心)に厳しく修正を迫られることになります。
人間は真実の愛が一体何であるかが掴みきれない存在であるならば、日々よく心の鏡を顧みて、自己の発した言葉や行為が、他の人たちを傷付けるようなものではなかったかどうかを、謙虚に反省し修正して、其れを一つの教訓として、更に充実した人生(夢追い)を歩んでゆくべきではないかと思うのであります。
そして常日頃から心の鏡を磨いておく必要があります。
放っておくと鏡の表面が曇ってしまい、正確な判断が出来なくなってしまうので、心して気を付けて致だきたいと想います。
この研磨の鏡は貴方たちの心の中から外界に向けてセットされているのであって、此処にもまた心の法則が働いてまいります。
ただし研磨の鏡に関しては、自己反省・自己研鑽ということで、まず自己を中心に解釈してゆかなくてはなりません。
心の法則を深く知れば知るほど、起こって来た問題の責任が自己にあるということが、徐々に判ってくるからです。
愛ということに於いては相手を中心に相手の立場に立って考える必要がありますが、反省ということに於いては、自己反省から入ってゆかねばならないでしょう。
それは、こういう事なのです。
例えば貴方がAという人に、トゲのある言葉や誤解をされるような行為をしたとします。
その時トゲのある言葉や行為はAさんに向けて一定の念の力で飛んで行く訳です。
しかしAさんは日頃から心の鏡を綺麗に磨いていたとします。
するとAさんの心の鏡はピカピカであって、貴方が発したマイナスの念を、反射鏡のように跳ね返してくる訳です。
すると其の跳ね返されたマイナスの念は何処へ行くかと言うと、同じマイナスの念を抱いている人の元へ行かざる負えないのです。
類が類を呼ぶ訳です。
つまりトゲのある言葉や行為を発した貴方の元に帰ってくる訳です。
またこうしたケースも考えられます。
貴方はAさんにマイナスの念を発しました。
そのマイナスの念はAさんの心の鏡に反射されてBさんへと飛んで行った…。
そしてBさんと貴方との接点に於いて、Bさんからトゲの立った言葉や行為が、貴方に帰ってくるということも有り得ます。
廻り巡って来るのです。
悪しき言葉や行為は廻り巡って貴方の元に帰ってくる訳です。
その時に相手を責める前に、先ず自己の心の鏡を顧みて、誰かに対して危害を及ぼす事は無かったかどうかを、つぶさに自己点検してみる必要があります。
こうした心の鏡を顧みる習慣が身に付いている人は、発作的(感情的)にカッとなって心を荒立てたりはしないでしょう。
そして直ぐに相手の心と和解してゆかれることでしょう。
そうした人の周囲には争い事が徐々に無くなって、やがて平和な環境が訪れることは言うまでもありません。
御統の珠・草薙の剣・研磨の鏡…。
此れら三つの宝物は、もちろん例えではありますが、古来より連綿と語り伝えられた地上人間の大切な尊い精神であります。
現在『御統の珠』は八尺の勾玉(やさかのまがたま)として東京都渋谷区の明治神宮に…。
『草薙の剣』は都牟刈の太刀(つむがりのたち)として愛知県名古屋市の熱田神宮に…。
『研磨の鏡』は八尺鏡(やあたのかがみ)として三重県伊勢市の伊勢神宮に…。
それぞれ奉納されております。
元来、神社仏閣は、受験祈願や結婚祈願などをする所ではなく(尤も願いが純粋であり真剣であれば言葉の力に神々が感応して叶えられることも有り得ますが)、本来の人間の正しき心(精神)を見つめ直す場所であり、神々の御加護・御教導に対する感謝をする場所であり、忙しい暮らしの中で心というものが見失いがちであるため、せめて初詣ぐらいは心を見つめ直そうと神社仏閣を訪れ、神官や僧侶たちから心の正しい在り方や生き方などを、聴聞(心の話を聞く)する為に訪れる所なのであります。
貴方の人生(夢追い)の途路にて凡ゆる困難に出会い、時には心を閉ざしてしまうこともあるかも知れません。
現在すでに心を閉ざしている方も居らっしゃるでしょう。
そうした人たちの為に、閉ざした心を開く為の幾つかの方法を考えておかねばなりません。
先ず最初に貴方は笑顔を取り戻すことです。
笑顔というものは習慣付けることによって、何時しか自然に微笑みが浮かぶようになるものなのです。
笑顔を忘れてしまうと顔が固まってしまって、笑おうにも頬が突っ張ってしまって、思うように笑えなくなってしまいます。
貴方は人と話をする時に、相手が渋面であるよりは微笑んでいてほしいと思いませんか?
笑顔が素敵な人とこそ仲良くなりたいと思いませんか?
そうした人とこそ仕事なり学業なりを共にしたいと思うでしょう…。
そうであるならば貴方は相手のた為にも笑顔を降り注ぐ人であって下さい。
笑顔は習慣付けることで徐々に取り戻してゆくことが出来ます。
朝、家を出掛ける前に、必ず一度は鏡を覗いてみて下さい。
其処に写った顔は、どのような顔ですか?
素晴らしく微笑んだ顔が写っていたならOKです。
それとは逆に悲しげな顔や苦しげな顔が写っていたなら、そのままひととき目を背けず、少しでも自分で納得が行くような笑顔を鏡に写してから出掛けて下さい。
渋面を心に印象することなく、微笑みを心に印象するように努力することです。
街へ出ると沢山の人間が歩いています。
全ての人は一様に心に鏡をもっている訳です。
ですから貴方が笑顔で人に接すれば、必ず相手も笑顔で対応して下さるでしょう。
貴方が渋面で人に接すれば、相手も何処となく渋面を装うでしょう。
貴方の心が相手の心の鏡に写し出されて、相手の顔面を通して、貴方の顔付きを教えて下さるのです。
心というものは以心伝心。
特に親しい人たちとは見事に心が繋がってゆくものなのです。
『立ち向かう人の心は鏡なり…』
聖訓は此ように語っているのです。
また心を閉ざしてしまった方は、物事を全て悪く解釈する傾向にあります。
物事には必ず二面性または多面性があるにも関わらず、悪くなる方向にばかり考え過ぎるのです。
どうして良くなる方向に考えてはいけないのか、貴方は正確に答えられますか?
貴方の過去の体験からのみ判断していませんか?
貴方の未来は常に新たな日々が始まり続けるのです。
過去が不運であったならば、これから始まる1日1日に於いて、幸せな生き方をして行けばいいではないですか…。
ようするに未来に対する明るい希望を描け…と言うことなのです。
時として襲い掛かる不安や恐怖を投げ捨てて、明るい希望や勇気の想いに変換して、常に光に向かって歩み続けて致だきたいと想います。
人間は決して生まれながらの悪人ではなく罪人でもなく、本来は全ての人が善人であります。
悪意を企む人たちは、こうした心の法則を単に知らないだけなのです。
彼らも他者に危害を加えたなら、いずれ自らの環境や境遇となって帰って来て、自らの発したマイナスの心に、自己自身が苦しむことになると本当に自覚したならは、決して悪意は抱けなくなってしまうのは当然で、愛の基に愛のままに生きてゆくようになるのであります。
貴方は善人として生まれ、夢を深めて、一人でも多くの人たちに本当の安らぎを与える為に、こうして生きている筈なのです。
どうか自信を持って生きて下さい…。
06 実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】