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新創世記・第5巻『光の道標』(詩編)の中に「光の故郷」という、6ページに及ぶ長い詩が載せてありますが、この詩体は古事記の冒頭(天地の初発の時…)から伊邪那岐神と伊邪那美神の二柱の神による国生みまでの要約を、暫定的に詩体として纏めた内容であります。
(新創世記第5巻、P7〜参照)
この光の故郷の詩体は、実は総ての創造作用のルーツを顕したものなのです。
古事記の神話に於ける天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神からはじまって、伊邪那岐神・伊邪那美神の国生みに至る内容の根本開示は、創化作用と創造作用を神名を通して語り掛けたもうたものなのです。
勿論、古事記の神話に掲げられた名だたる神々は、実在される神々でありまして、現在では数々の転生光臨輪廻を繰り成され、役職名として残された御神名もあれば、御神名そのものが御神体であらせられる神々も居らっしゃいます。
此処に「光の故郷」の詩体を其のまま掲載するスペースは最早ありませんので、この詩体の解説を兼ねて『創造』ということについて、お話をさせて致だきたいと思います。
まず『創造』ということに於いて、最も身近な存在である人間の肉体を例にとってみると、体内の内臓(心臓や肺臓、胃腸や膵臓肝臓など)を形作っているものが「細胞」であり、この細胞を形作っているものが「分子」であり、分子を形作っているものが「原子」であり、この原子を形作っているものが「素粒子」であると、現代の最先端をゆく物理科学の領域では認識されております。
しかし此の素粒子なるものには更に微細なものが発見されておりますが、こうした最小単位の物質は何も無い空間から突如として現れて来るもので、また突如として消えてしまうものでもあるのです。
最小単位の物質は何も無い空間から突然にして顕れ、素粒子となり原子を形造り、分子に組み合わされ、細胞を組織して人間の肉体を顕しめてくるのであります。
すると人間は何も無い空間から生まれて来たことにもなります。
肉体に限らず全ての物質に於いても、その元を辿れば原子であり、原子を形造っているものは、やはり素粒子であるということで、この地上に存在する全てのものは無から生まれ、やがて時を経て無に帰ってゆくことになる訳です。
此処で考えなければならないことは、なぜ何も無い空間から、物質や肉体が形造られてくるのか、なぜ何も無いのに一定の姿を保ってくるのか…。
偶然に生じてくるにしては、どの人間を見渡してみても、個性こそ違うが同じ顔形、両手両足、同じ肉体形式を採っている…。
偶然に出てくるのならば、もっとバラエティーに翔んでいるのではないであろうか…と考えられますが、人間は一様に同じ形態を採っているのであります。
七十数億の人間が同じ姿形で生まれ育って成人してゆきます。
其処には雛形(設計図)のような、人類共通の人間理念があるのではないであろうか…と、そう観ぜざる負えません。
一般的(地上世界的)に見て、何も無い所からは何も出て来るはずは無いにも関わらず、素粒子等の微粒子は確かに無から生じて来て、凡ゆる事物へと組み合わされて、人類共通の姿形となって現れてくるわけです。
そうしてみると遺伝子論の中に親から子へ伝わる何かがあるとしても、肉体細胞そのものが本当に子孫に伝わっているのか…。
こうした疑問が出て来ても可笑しくはありません。
本来、何も無い状態から生じて来た肉体細胞であるならば、その細胞を創り出す為の何らかの意識が、必ず其処には必要となって来るはずです。
つまり肉体細胞としての遺伝子そのものが親から子へ遺伝しているというよりも、心(想い)そのものが親から子へと伝わり、親の心(想い)が子の心(想い)の中から心の具現力に従って、まさに遺伝したかの如く似通った形態にて、子をして発現してくるということであります。
この心(想い)というものを深く深く探ってゆくと、移り変わる現象(全ての物質や肉体)の中に普遍なる実在(理念)を認めざる負えなくなります。
何故なら物質や肉体は時が過ぎれば、やがて朽ち果て消滅してゆくわけですが、人類共通の理念は例え時代が移り変わろうとも、一定した姿形を保って現れてくるからであります。
それは肉眼には決して見えない心の奥底なる世界に、総ての根本とも言える高貴なる理念が、確かに実在しているということなのです。
物質的な形ではなく、正しく理念として気高き心として、総てが其処に具わっている高次元世界であります。
この高次元世界すなわち実相世界より、地上世界に創造的意識が天降ってくる際に尚一層、素晴らしい芸術作品と成るように本来は一つの光の世界から、二つの理念が顕われて来たのであります。
その一つは『繁栄』であり、もう一つは『調和』であります。
繁栄の理念は、時間空間の座標軸に当て嵌めるなら、過去・現在・未来の時の流れを示す時間の縦軸で表すことが出来て、軸方向力としては宇宙に向かって何処までも伸びてゆかんとする『遠心力』であり、この理念の下に地上の生命たちは、上方へ宇宙へと生長してゆくのであります。
そして其れは陰陽の『陽極』を司る、理念でもあるのです。
なぜ地上の生命たちが繁栄の理念の下に向上を望み、大空へ宇宙へと心が魅かれるのかと言いますと、其処には太陽を始めとして、希望に満ちた光たちが存在する事を、全ての地上生命の潜在意識内で既に知っているからであります。
調和の理念は、時間空間の座標軸に当て嵌めるならば、何処までも延べ広がる空間の横軸で表すことが出来ます。
軸方向力としては総ての生命を宇宙に漂う迷い子としないために、正に命綱的な力で繫ぎ止める『求心力』であり、この理念の下に地上の生命たちは個と個の絆を深め、生かし合い育み合って、やがて一つに纏まってゆくのであります。
そしてそれは陰陽の『陰極』を司る理念でもあるのです。
なぜ地上の生命たちが調和の理念の下に一つに結ばれてゆかんとするかと言いますと、其処には愛の原理があり、それは生命たちの魂の奥底に刻まれた、心の故郷への懐かしい薫りを確かに覚えているからであります。
この二つに岐れた理念が、それぞれに最高作品とも言える姿で、天降って顕われて来たものが、実は地上に生きている人間の男性(繁栄)と女性(調和)であります。
人間の本来の姿は、決して肉体そのものではなく、其れに付随する感覚器官そのものでもなく、其れらを通して流れ出してくる生命エネルギーとしての理念そのものなのであります。
生命エネルギーとしての各々に個性を持った理念そのものが、転生輪廻を繰り成して肉体に宿り、元なる個性を有する理念に、限りなく純粋さを取り戻してゆく為の、言わば魂修養をしているとも言えるのであります。
このことは次のように例えられます。
皆さんは空に浮かぶ雲を見上げたことがあるでしょう…。
太陽の光が空に浮かぶ雲に当たり、其の雲の影が地上に映ります。
影は雲の流れに添って、ゆっくりと移動して行きますし、雲が形を変えれば影も形を変えるのですが、影そのものの形を変えようと、どんなに思い悩んでも、雲自身が形を変えない限り、雲の影は決して形を変えはしません。
これは何と人間の心の姿に似ていることでしょうか…。
影が環境であり、雲が心のようにも映ります。
そして太陽の光が人間の心を生かす生命エネルギーのようです。
人間は兎角、自身の環境(影)の苦しさに思い悩む存在でありますが、其の環境(影)を映し出している心(雲)を入れ換えて改めないことには、何の解決の糸口も見い出せないのです。
人生は宇宙(自然)の縮図でもあり、宇宙もまた人間の縮図であります。
心は極小(ミクロ)であり極大(マクロ)です。
何処へも片寄らない心を、この大宇宙(自然界)は示しておられるのであります。
一転して映画に例えるならば、映画などは先ず映し出す光源があり、其の光源の光がフィルムを通って銀幕(スクリーン)に映し出され、映像としての人や物体が、恰も実在のように動く訳ですが、其の映像を見ている貴方が、貴方の思うままにストーリーを展開したいと思い悩んだところで、映し出されたスクリーンの映像は、決して変えることが出来ない訳です。
其の映像(環境)を真に修正する為には、やはり元なるフィルム(心)を修正しないことには、決して変わっては行かないのであります。
本来の純粋理念というものは、この映画の例えのフィルムを指していた訳ですが、人類の永い長い転生輪廻を繰り成してゆくうちに、地上(スクリーン)のみを人間の全てだと思い違いをして苦しみ悩み迷う為に、フィルム(本来の理念)とスクリーン(地上環境)との間に、迷いの思念が狭霧の如くモクモクと沸き上がり、其処にもう一つの歪んだフィルターを作り出してしまったのです。
これが謂わゆる『想念帯』とも言われる部分に蔓延った、人類共通の歪みのフィルター(間違った概念)である訳です。
俗に言う常識というものの中には、かなりの領域で単に利己主義を押し通す為だけの多数意見からくる常識が多く、本来は納得が行かない物事であっても、多数意見に従わざる負えないような不合理な常識が多くあります。
このように、人類全体が精神病に感染してでもいるかのような歪んだフィルターが、映画のフィルム(理想)とスクリーン(現実)との間に蔓延っている以上、元なる理念(フィルム)がどんなに気高く純粋なる愛を体現していたとしても、間違った人類共通的概念に歪められてしまって、スクリーン(地上環境)上では、平和を望みながら争いの絶えない歴史が、現在もなお続いているのであります。
この歪められてしまったフィルターを、人間は限りなく浄化(純粋化)してゆかなければなりません。
浄化作用を進めてゆく為には、やはり正しい方向と其の正しい方向へ向かうべく正しい方法とを、先ず一人一人が確かに掴むべきではないでしょうか。
その正しい方向こそ人間(生命)が本来、岐れてきた、たった一つの故郷であり、創化作用の原点である理念の世界を通した奥なる、光の故郷(実相)であるのです。
現実(形)のみを気にして其れにとらわれて、其の現象(現実)を創り出している理念(理想)を忘れてしまっているところに、先ず第一としての反省項目が上がって来るのであります。
形の優劣のみを気にして流行りに右往左往しているところに、追い求めるべき理想(夢)を見失う原因があるのであります。
創造作用の真実は正しく、描かれた理想が理念の世界から天降って来て、やがて現象(現実)世界へと投影されて、凡ゆる形に組み合わされてゆくのであります。
そうである以上は、人間は更に更に心の世界の探求に深く身を投じてゆくべきなのです。
理念(理想)こそが人間の本来の姿である以上は、繁栄と調和なる理念の下に、何処までも純粋で気高き夢追いを心掛けてゆくべきなのです。
後々、新創世記と言われるであろう21世紀の光に満ちた時代は、貴方たち夢追い人らが創り上げてゆく、未来への新たな創世記でもあるのです。
どうか心して貴方は貴方の夢を追い続けて致だきたい…。
総ての夢を実現する鍵は何時の時代も、繁栄と調和の理念の基による、愛(結び)と賛嘆(喜び合い)とによるのです。
そして総ての夢追い人たちが帰り着くべき郷里とは、愛の理念(想い)が満ち溢れた懐かしき光の故郷であります。
06 実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】