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新創世記・第5巻『光の道標』(詩編)の中に「光の故郷」という、6ページに及ぶ長い詩が載せてありますが、この詩体は古事記の冒頭(天地の初発の時…)から伊邪那岐神と伊邪那美神の二柱の神による国生みまでの要約を、暫定的に詩体として纏めた内容であります。
(新創世記第5巻、P7〜参照)
この光の故郷の詩体は、実は総ての創造作用のルーツを顕したものなのです。
古事記の神話に於ける天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神からはじまって、伊邪那岐神・伊邪那美神の国生みに至る内容の根本開示は、創化作用と創造作用を神名を通して語り掛けたもうたものなのです。
勿論、古事記の神話に掲げられた名だたる神々は、実在される神々でありまして、現在では数々の転生光臨輪廻を繰り成され、役職名として残された御神名もあれば、御神名そのものが御神体であらせられる神々も居らっしゃいます。
此処に「光の故郷」の詩体を其のまま掲載するスペースは最早ありませんので、この詩体の解説を兼ねて『創造』ということについて、お話をさせて致だきたいと思います。
まず『創造』ということに於いて、最も身近な存在である人間の肉体を例にとってみると、体内の内臓(心臓や肺臓、胃腸や膵臓肝臓など)を形作っているものが「細胞」であり、この細胞を形作っているものが「分子」であり、分子を形作っているものが「原子」であり、この原子を形作っているものが「素粒子」であると、現代の最先端をゆく物理科学の領域では認識されております。
しかし此の素粒子なるものには更に微細なものが発見されておりますが、こうした最小単位の物質は何も無い空間から突如として現れて来るもので、また突如として消えてしまうものでもあるのです。
最小単位の物質は何も無い空間から突然にして顕れ、素粒子となり原子を形造り、分子に組み合わされ、細胞を組織して人間の肉体を顕しめてくるのであります。
すると人間は何も無い空間から生まれて来たことにもなります。
肉体に限らず全ての物質に於いても、その元を辿れば原子であり、原子を形造っているものは、やはり素粒子であるということで、この地上に存在する全てのものは無から生まれ、やがて時を経て無に帰ってゆくことになる訳です。
此処で考えなければならないことは、なぜ何も無い空間から、物質や肉体が形造られてくるのか、なぜ何も無いのに一定の姿を保ってくるのか…。
偶然に生じてくるにしては、どの人間を見渡してみても、個性こそ違うが同じ顔形、両手両足、同じ肉体形式を採っている…。
偶然に出てくるのならば、もっとバラエティーに翔んでいるのではないであろうか…と考えられますが、人間は一様に同じ形態を採っているのであります。
七十数億の人間が同じ姿形で生まれ育って成人してゆきます。
其処には雛形(設計図)のような、人類共通の人間理念があるのではないであろうか…と、そう観ぜざる負えません。
一般的(地上世界的)に見て、何も無い所からは何も出て来るはずは無いにも関わらず、素粒子等の微粒子は確かに無から生じて来て、凡ゆる事物へと組み合わされて、人類共通の姿形となって現れてくるわけです。
そうしてみると遺伝子論の中に親から子へ伝わる何かがあるとしても、肉体細胞そのものが本当に子孫に伝わっているのか…。
こうした疑問が出て来ても可笑しくはありません。
本来、何も無い状態から生じて来た肉体細胞であるならば、その細胞を創り出す為の何らかの意識が、必ず其処には必要となって来るはずです。
つまり肉体細胞としての遺伝子そのものが親から子へ遺伝しているというよりも、心(想い)そのものが親から子へと伝わり、親の心(想い)が子の心(想い)の中から心の具現力に従って、まさに遺伝したかの如く似通った形態にて、子をして発現してくるということであります。
この心(想い)というものを深く深く探ってゆくと、移り変わる現象(全ての物質や肉体)の中に普遍なる実在(理念)を認めざる負えなくなります。
何故なら物質や肉体は時が過ぎれば、やがて朽ち果て消滅してゆくわけですが、人類共通の理念は例え時代が移り変わろうとも、一定した姿形を保って現れてくるからであります。
それは肉眼には決して見えない心の奥底なる世界に、総ての根本とも言える高貴なる理念が、確かに実在しているということなのです。
物質的な形ではなく、正しく理念として気高き心として、総てが其処に具わっている高次元世界であります。
この高次元世界すなわち実相世界より、地上世界に創造的意識が天降ってくる際に尚一層、素晴らしい芸術作品と成るように本来は一つの光の世界から、二つの理念が顕われて来たのであります。
その一つは『繁栄』であり、もう一つは『調和』であります。
繁栄の理念は、時間空間の座標軸に当て嵌めるなら、過去・現在・未来の時の流れを示す時間の縦軸で表すことが出来て、軸方向力としては宇宙に向かって何処までも伸びてゆかんとする『遠心力』であり、この理念の下に地上の生命たちは、上方へ宇宙へと生長してゆくのであります。
そして其れは陰陽の『陽極』を司る、理念でもあるのです。
なぜ地上の生命たちが繁栄の理念の下に向上を望み、大空へ宇宙へと心が魅かれるのかと言いますと、其処には太陽を始めとして、希望に満ちた光たちが存在する事を、全ての地上生命の潜在意識内で既に知っているからであります。
調和の理念は、時間空間の座標軸に当て嵌めるならば、何処までも延べ広がる空間の横軸で表すことが出来ます。
軸方向力としては総ての生命を宇宙に漂う迷い子としないために、正に命綱的な力で繫ぎ止める『求心力』であり、この理念の下に地上の生命たちは個と個の絆を深め、生かし合い育み合って、やがて一つに纏まってゆくのであります。
そしてそれは陰陽の『陰極』を司る理念でもあるのです。
なぜ地上の生命たちが調和の理念の下に一つに結ばれてゆかんとするかと言いますと、其処には愛の原理があり、それは生命たちの魂の奥底に刻まれた、心の故郷への懐かしい薫りを確かに覚えているからであります。
この二つに岐れた理念が、それぞれに最高作品とも言える姿で、天降って顕われて来たものが、実は地上に生きている人間の男性(繁栄)と女性(調和)であります。
人間の本来の姿は、決して肉体そのものではなく、其れに付随する感覚器官そのものでもなく、其れらを通して流れ出してくる生命エネルギーとしての理念そのものなのであります。
生命エネルギーとしての各々に個性を持った理念そのものが、転生輪廻を繰り成して肉体に宿り、元なる個性を有する理念に、限りなく純粋さを取り戻してゆく為の、言わば魂修養をしているとも言えるのであります。
このことは次のように例えられます。
皆さんは空に浮かぶ雲を見上げたことがあるでしょう…。
太陽の光が空に浮かぶ雲に当たり、其の雲の影が地上に映ります。
影は雲の流れに添って、ゆっくりと移動して行きますし、雲が形を変えれば影も形を変えるのですが、影そのものの形を変えようと、どんなに思い悩んでも、雲自身が形を変えない限り、雲の影は決して形を変えはしません。
これは何と人間の心の姿に似ていることでしょうか…。
影が環境であり、雲が心のようにも映ります。
そして太陽の光が人間の心を生かす生命エネルギーのようです。
人間は兎角、自身の環境(影)の苦しさに思い悩む存在でありますが、其の環境(影)を映し出している心(雲)を入れ換えて改めないことには、何の解決の糸口も見い出せないのです。
人生は宇宙(自然)の縮図でもあり、宇宙もまた人間の縮図であります。
心は極小(ミクロ)であり極大(マクロ)です。
何処へも片寄らない心を、この大宇宙(自然界)は示しておられるのであります。
一転して映画に例えるならば、映画などは先ず映し出す光源があり、其の光源の光がフィルムを通って銀幕(スクリーン)に映し出され、映像としての人や物体が、恰も実在のように動く訳ですが、其の映像を見ている貴方が、貴方の思うままにストーリーを展開したいと思い悩んだところで、映し出されたスクリーンの映像は、決して変えることが出来ない訳です。
其の映像(環境)を真に修正する為には、やはり元なるフィルム(心)を修正しないことには、決して変わっては行かないのであります。
本来の純粋理念というものは、この映画の例えのフィルムを指していた訳ですが、人類の永い長い転生輪廻を繰り成してゆくうちに、地上(スクリーン)のみを人間の全てだと思い違いをして苦しみ悩み迷う為に、フィルム(本来の理念)とスクリーン(地上環境)との間に、迷いの思念が狭霧の如くモクモクと沸き上がり、其処にもう一つの歪んだフィルターを作り出してしまったのです。
これが謂わゆる『想念帯』とも言われる部分に蔓延った、人類共通の歪みのフィルター(間違った概念)である訳です。
俗に言う常識というものの中には、かなりの領域で単に利己主義を押し通す為だけの多数意見からくる常識が多く、本来は納得が行かない物事であっても、多数意見に従わざる負えないような不合理な常識が多くあります。
このように、人類全体が精神病に感染してでもいるかのような歪んだフィルターが、映画のフィルム(理想)とスクリーン(現実)との間に蔓延っている以上、元なる理念(フィルム)がどんなに気高く純粋なる愛を体現していたとしても、間違った人類共通的概念に歪められてしまって、スクリーン(地上環境)上では、平和を望みながら争いの絶えない歴史が、現在もなお続いているのであります。
この歪められてしまったフィルターを、人間は限りなく浄化(純粋化)してゆかなければなりません。
浄化作用を進めてゆく為には、やはり正しい方向と其の正しい方向へ向かうべく正しい方法とを、先ず一人一人が確かに掴むべきではないでしょうか。
その正しい方向こそ人間(生命)が本来、岐れてきた、たった一つの故郷であり、創化作用の原点である理念の世界を通した奥なる、光の故郷(実相)であるのです。
現実(形)のみを気にして其れにとらわれて、其の現象(現実)を創り出している理念(理想)を忘れてしまっているところに、先ず第一としての反省項目が上がって来るのであります。
形の優劣のみを気にして流行りに右往左往しているところに、追い求めるべき理想(夢)を見失う原因があるのであります。
創造作用の真実は正しく、描かれた理想が理念の世界から天降って来て、やがて現象(現実)世界へと投影されて、凡ゆる形に組み合わされてゆくのであります。
そうである以上は、人間は更に更に心の世界の探求に深く身を投じてゆくべきなのです。
理念(理想)こそが人間の本来の姿である以上は、繁栄と調和なる理念の下に、何処までも純粋で気高き夢追いを心掛けてゆくべきなのです。
後々、新創世記と言われるであろう21世紀の光に満ちた時代は、貴方たち夢追い人らが創り上げてゆく、未来への新たな創世記でもあるのです。
どうか心して貴方は貴方の夢を追い続けて致だきたい…。
総ての夢を実現する鍵は何時の時代も、繁栄と調和の理念の基による、愛(結び)と賛嘆(喜び合い)とによるのです。
そして総ての夢追い人たちが帰り着くべき郷里とは、愛の理念(想い)が満ち溢れた懐かしき光の故郷であります。
06 実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】
さて、運命は二つの観点から見る必要があるということでした。
一つ目は永遠に生き通しの生命としての運命観であり、二つ目は肉体生命としての何十年かの人生に於ける運命感であるという話をしてまいりました。
この二つの視点は、今までの説明から考えてみますと全く別なるものではなく、一本のライン上に原因・・・結果のプロセスの基で融合しているものであるのです。
それは理想と現実との相関関係と等しく、理想を抱くもの(描くもの)が現実世界に現れて来る…というように、永遠の生命としての進化に伴った運命を、肉体を纏うことによって更に厳しい魂修行を通して、この地上でも進化に伴った霊的運命を辿ってゆこうとすることと同義であるということなのです。
然し乍ら、この地上に肉体を纏って生きている間に、肉体的な怠惰な生活に傾倒してしまい、本来の夢(使命)や理想(役割)を忘れ去り、マイナスの心(悪業・・・カルマ)を自身の心に多く生産し記憶に留め、反省することなく人生を終えて行くために、あの世と言われる幽界にて引き続き苦しんでいる…。
そして霊界に住まう友人知人らの導きの末に、マイナスの心を修正して本来の魂の郷里に帰り着き、自身の魂の傾向性(此処ではマイナスの心を指す)を修正するために、時を経てまた地上に生まれ変わって来るわけです。
その折に自身のマイナスの心を修正し易い環境(地域や家庭)を選んで来るわけですが、それは何故かと言いますと、地上人間として肉体を纏うと殆どの霊的記憶を忘れ去ってしまうため、自身のマイナスの心が一体、何であるかということも忘れてしまいます。
そのため自身のマイナスの心が何であるのかを気付き易い環境を選んで来るのが真実であります。
皆さんを現在、取り巻いている環境や境遇(家庭環境や人間関係)そのものが、皆さんにとってのマイナスの心が何であるかと言うことを気付かせる為の縁であるわけです。
そうであるならば自分自身を取り巻いている環境や境遇から、逆に自身のマイナスの心を逆発想することが出来るのです。
家庭内での様々な問題や、学校や職場での諸々の問題など、いつも同じような苦しみ悲しみが起こって来るということは、それはもう自分自身のマイナスの心の現れなのです。
決して誰にも責任を転嫁出来ないのです。
例え相手が100%悪いように見えていたとしても、敢えて其の環境を選び、又は選び易いように計画を立てて来たのは、他ならぬ自分自身であったのです。
相手は敢えて我が身のマイナスの心が何であるのかを知らせんが為に、そのような悪しき役柄を演じて下さっている観世音菩薩の慈悲の説法なのです。
これは有り難いことなのです。
そうした相手との問題(縁)が無かったならば、自身のマイナスの心が何であるのかが判らないまま過ぎてしまったかも知れないのです。
その時の相手の存在は、自分自身のマイナスの心を気付かせる為に、敢えて自己の霊性を落としてでも、辛い役柄を演じて下さった人なのです。
そのような人に対して心から感謝し、その人の前途が今後より一層、幸福でありますことを信じ祈ってあげなければならないのです。
このように自身のマイナスの心を気付き易い環境に生まれ、生活してゆく中で、いつも自分が犯しがちな過ち(間違った思いや行為、悪癖なども含み)があると思います。
それがいったい何であるのかを、先ず見極める必要があるのです。
普段の生活が当然であると思い込んではいけないのです。
利己心の魔を一刻も早く取り去らねばならないのです。
マイナスの心はマイナスの心としての方向性(傾向性)を持っております。
何時も何かに囚われて、自棄に興味をそそられ、その思いに操られるが如く、自分でもコントロールが効かない程に同じ物事に心が引かれて行く…。
そして其れは大抵の場合、欲望と怠惰である訳ですが、止めたいと思いながらも止められず、いけない事と知りながら其の行為を行ってしまう…。
其処には其れらの行為を呼び込むような、魂の傾向(方向性)が有るということに気付くべきであります。
この魂の傾向こそが俗に言う『宿命』と言われるものに該当いたします。
宿命と言うものが現在まで逃れられないもののように伝え残されて来た訳ですが、真実は自分自身が過去(過去世を含み)に於いて、マイナスの心として自分で自分の心に刻み、今世に於いて其れを修正すべく、人生の課題として、人生の問題集として取り組んでいる、十分に修正可能な、いいや修正してゆくべきマイナスの心である訳です。
自分自身の心の問題として誤って生み出した宿命であるからこそ、自分自身の努力と根気で解決してゆけるものであります。
自分で解決出来ないような問題は、もともと生み出しようが無いのでありまして、諸々の環境も境遇も全て自分の心の副産物である。
仏教で説かれる三界唯心所現とは、これら心の法則を厳密に説いた正法仏理であったのです。
ですから悪戯に宿命を避けて目を瞑ってしまうべきものではなく、勇気を持って其れらのマイナスの心を見極めて修正してゆくべきではないでしょうか…。
地上人間の環境や境遇は、自身のマイナスの心を修正する為に、最も適した環境を選んで来たという話をしてまいりました。
そして其の環境から自身の魂の傾向を読み取り、マイナスの心を修正する必要があるという事でありました。
マイナスの心を修正する為に選んで来た環境であるならば、そこで廻り逢う人たちも、自身の魂の傾向性を気付かせる人たちであると言う事でもあります。
こうしてマイナスの心を見極め、それを反省して心を修正し、今後の人生のプラスの要素として、それらの体験を生かしてゆけたならば、マイナスの心はプラスの心となりて、貴方の未来を輝かすことになります。
何故一早くマイナスの心を修正しなければならないかと言いますと、それらのマイナスの心に覆われて小さく埋もれている、貴方のプラスの心(真実の夢)を現し出してほしいからです。
何十年かの魂修養に於いて、マイナスの心の修正(カルマの刈り取り)のみで終わってほしくないからです。
ましてやマイナスの心に気付くことなく人生を終わってはならないのです。
運命論でもお話ししましたように、人間の本来の生命は、尽きない進化を臨むことが本義なのです。
真実の愛を深め広げることこそが本義なのです。
此処を間違ってはならないのであります。
進化を臨む中で、間違った自由意思を持ったが為に、マイナスの心を強く記憶に刻んだのです。
そうである以上、マイナスの心の修正のみで決して良しとしてはならないのです。
マイナスの心を修正し乗り越えて、生命(自分自身)の本来の進化に添った本当の夢追いにまで、人生を昇華させてほしいのです。
そこまで人生を有意義に生ききってほしいのです。
いいや、そうであるべきだと思います。
自分自身の環境の意味を知った時、自身の魂の傾向に気付いた時、そしてマイナスの心を修正し、それらを乗り越えた時に、人間は『愛』というものの本当の意味を悟るのであります。
出逢いというものが、真実の愛を深め広げる為の縁であったと、心の奥底から自覚することになるのであります。
自分自身のマイナスの心により現れていた環境や境遇を乗り越えた時、始めて自身の本来の夢追いが何であったのかを悟ることになるのです。
その時に始めて、今まで現れていた悪環境の中に、ひっそりとかも知れませんが、自身の真実の夢追いを叶えんが為の環境や境遇、それと共に夢追いの協力者たちが、いつも寄り添っていたということに気付くのであります。
マイナスの心(迷った心)では、決して其れらの善環境は見い出せないのです。
プラスの心(迷い無き心)になって始めて、其れらの善環境を見い出すことが出来、真実の夢追いのプロローグを迎えることになるのであります。
遠い昔、其れは前世ではなく何世も昔の事であると思いますが、生命(人間)が地上に始めて降り立った時には、誰一人としてマイナスの心を持ち合わせてはいなかったはずなのです。
それぞれ(個々生命)がそれぞれ(使命役割)の進化に添った真実の夢を心に抱き、希望に前途を照らされて総て(降臨)が始まったはずなのです。
そうであるはずなのに自分一人の立場・思惑・都合のみを主張し始めた時、暗黒に通ずる黒雲思念がモクモクと発生して来たのです。
その後、幾時代を重ね、自己の尊厳や利得のみを主張する者が富に増え、逆に心正しき者が虐げられるような悲しい時代となってしまいました。
何処を見渡してみても自己中心的な言動をする人が多い為に、多勢の常識として其れを当然と思い違いをして、生まれ育ってくる幼子たちは皆、歪んだ大人たちを見本として素直に其れを真似て、益々生命の光を閉ざして行くしまつ…。
何が本当に正しいのかを知らず(知ろうともせず)、日々の怠惰な生活に埋もれてゆく…。
こうした世の中で真実の夢追いを心掛けてゆくことは誠に困難ではありますが、光(善性)を失いがちな現代であればこそ、偽善(欲望・怠惰)の夢追いではなく、真実(愛の為)の夢追いを一人でも多くの悟りし者が心掛けて、誤った価値観を修復し、歪められた愛を修正してゆく必要があるのです。
一人一人それぞれの夢(個性)を通して、真実の愛を一人でも多くの人々に伝えてゆく必要があるのです。
精神性の向上に於いての、進化の流れを塞き止めようとする人たちが多い現代の中で、老若男女を問わず、一人でも多くの心ある勇士が立ち上がって下さることが今、望まれているのです。
これが全ての人に共通の使命であると言えるのです。
誰もが同じ使命の下に希望を抱き勇気を持って地上に降り立ったのであります。
決して特別な人にだけ特別に与えられた使命ではなく、皆が地上に降り立つ以前に強く心に抱いた共通の使命なのです。
それは一重に『積極性』への帰還であります。
その時(地上に降り立つ以前)の想いを…迷える地上の人たちを憐れみ、何とか救ってあげたい…と、大いなる神に切なく願った想いを、どうか貴方も想い出して致だきたい。
音楽を愛する者はメロディーに愛を奏で、文学を愛する者は文章や詩などに愛を込めて、科学を愛する者は科学を通して真実の愛を発見し続け、絵画を愛する者はキャンパスに愛を表現し、政治経済に道を求める者は其処に秩序と調和が顕現することを目指し続け、それぞれ(個々生命)がそれぞれ(使命役割)の夢(人生)を通して真実の愛を深め、進化に添った方向で努力し続ける中に、真実の夢追いが光り輝いて来るのです。
そうした夢追い人たちが真実の愛に叶った時代を創り、歴史を塗り替えてゆくのです。
その勇士たちとは、他ならぬ貴方たちのことであるのです。
貴方たちは革命を起こすために生まれて来た訳ではありません。
平和運動とはいえ争いの思念の下に戦いを起こすことが、どれほど悲惨な状況を展開して来たかは、歴史を振り返れば明白なのです。
むしろ貴方たちは精神的革命を起こす為に、凡ゆる部門に、凡ゆる善なるアイディアを工夫して、個々の夢を通して真実の愛を此の地上に現してゆくべきであります。
06 実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】
人間は決して悪人として生まれて来たのではありません。
生まれながらの悪人など一人として居はしないのです。
では何故、世の中には犯罪が溢れ、疑心暗鬼が横行しているのでしょうか?
幼い頃は誰もが素直で明るく天真爛漫に育っていた筈なのに、何時の日にか素直さを忘れ、悲しみに明け暮れて、他人を信じられないばかりか、自分自身をも信じられない程に迷って行く人が殆どなのです。
中には自分だけは迷っていないと言う方が居らっしゃるかも知れませんが、人間の本質が何であるのか?
真実の愛とは如何なるものなのか?
これらの問い掛けに正しく答えられなければ、もはや迷っているとしか言いようがないのです。
もう既に自分自身の本来の姿、本当の在り方、誠の生き方が解らないでいるのです。
本当に自分が何者であり、どの様に生きてゆくかが解っているのならば、決して人を傷付けたり詰ったりはしないでしょう。
影口悪口など出来ないでしょう。
何があろうと腹を立てたりはしないでしょう。
他人よりも優秀であったとしても決して驕り高ぶったりはしないでしょう。
いいや、出来ないのです。
人間の本質や真実の愛が何であるかが本当に解ったならば、それらの行為がどれほど相手の心を傷付け、それと同時に自分をも傷付けているかが、自身の心に痛いほど響いてくるからです。
そうして自分自身が迷っていることすら解らず(知ろうともせず)、迷ったままを人間として当然であると誤信し、迷ったまま其のままの思いと行為とで生きている為に、他の人の気持ちが理解できるはずもなく、それが理解できないが為に自己中心的な思考となり、恰も地球が、宇宙が、自分を中心に周っているとでも思っている。
そして自由を尊重するべきだと言い張りながら、誰も彼も自由だ自由だと個別化して行く中で、自由と自由が衝突し合い、凡ゆる争いとなり、進んでは犯罪にまで発展して行くのです。
自分が解らないが為に相手に対する見方が疑いとなり、全てを疑って見る為に其処から疑心暗鬼となって、間違った言葉を巡らして更に迷って行くのです。
こうしたことが本当の人間としての在るべき姿でしょうか?
時代の転換期である現代は世の中が乱れ、例外なく迷いの波動の延長線上に誰もが居るということを、そろそろ人類は気付かなければならないのです。
そして気付いたならば進んで心の修正をしてゆかねばならないのです。
本来の本当の人間としての姿に、一早く立ち帰らねばならないのです。
人間は自分自身の運命を、自ら計画して生まれてきたにも関わらず、人間の本質を忘れ、真実の愛を忘れて、罪や悪といった過ちを積み重ねて行くようです。
人の一生は全て自身の心に記憶されているため、これらの過ちも例外なく残されて行くのです。
ただ真実に目覚め、過ちを過ちと気が付き、反省して心を正しく入れ替えて、一つの体験として今後の人生に生かして行けたならば、その過ちはプラスの体験となりて、心の糧として記憶に残されてゆくことになります。
このように人々が起こす過ちは、心の修正なくしては悪業(マイナスのカルマ)として残されて、正しく心の修正が出来るまで、同じような環境と境遇を呼び(類が類を呼び)繰り返し反省を促され、今世で心の修正が出来なければ来世に持ち越すことになります。
カルマには、このような悪業としてのマイナスのカルマと、もう一つ善業としてのプラスのカルマがあります。
善業(プラスのカルマ)とは、即ち愛の想いが魂に刻まれた傾向性として、自然法邇に愛の行為として現れてくるものです。
この善業は積極的に愛を施してゆく中で、善なるカルマを心に残してゆくことも可能であるはずです。
愛の想いと行為とが、本当に真実を貫いたものとして現すことが出来たならば、それ相応の悪業が消える場合も有り得ます。
…というのは過去に犯した過ちを反省に促すような愛の想いと行為であったならば、マイナスの要素がプラスの要素に補われて消えてゆく場合があるということです。
愛というものには、このように悪業を善転させてゆく力があるのです。
人間は同じカルマを心に残すならば、善業(プラスの心)をのみ残してゆく努力が大切なのではないでしょうか。
こうした善業(プラスの心)こそが、人間の本来の夢追いに通ずるものなのです。
結局、夢を追うことに於いて、誰かを傷付けるような夢追いであってはならないということです。
むしろ一人でも多くの人たちの幸福に繋がるものとして、何処までも夢を追い求められるべきであります。
この幸福についても、肉体的な快楽といったものではなく、あくまでも精神的向上に繋がる幸福でなければならないのです。
精神的に時代を押し上げるようなものとして、又は次代を担う人たちの精神的な希望と勇気に繋がるものとして、彼らへの心の遺産として、より高貴なる姿のままに、夢を広げ愛を深めて、彼らに愛に叶った夢を伝え残してあげるべく義務があるのではないでしょうか…。
それが彼らより先に生まれたものとして、彼らより先に生きた者として、この時代を最高の芸術として次代の人たちに預け継ぐ義務があるのです。
そうしたことから考えましても、自分一人だけの利益の為の夢追いが、何と小さく儚いことであるかが解って致だけると思います。
本当の夢追いが、どんなにか高貴で素晴らしいことであるかを、よくよく考えて致だきたいのです。
そしてどれほど遣り甲斐があり生き甲斐となることかを考えて致だきたいのです。
人間は生まれる前に人生計画を立てているということですが、そうであるならば既に個人々々が追い求めるべき夢は、個々の心の中にシッカリと刻まれているはずなのです。
そうして自分自身の夢追いに対して、最も適合した環境を選んで生まれて来たはずなのです。
すると現在、貴方を取り巻いている環境や境遇が、貴方の理想(使命)とは何であるか、貴方の実相(役割)とは何であるか、貴方の個性(正体)は誰であるのか…を、如実に表現しているということなのです。
皆さん、喜んで下さい。
皆さんの夢は必ず叶います。
まず自分がどのような夢を心に抱いて生誕して来たのかを、自身の環境や境遇から、そして自身の魂の傾向性から読み取る作業から始めるべきなのです。
これから詳しくお話し致しますが、その前に『理想』と『現実』について少しばかり語ってみたいと思います。
夢は必ず叶います。
叶うから夢というのです。
凡そ此の世界に生まれて来た人たちは皆、心に夢(使命)を携えて、希望を描き勇気を持って生まれて来たのであります。
現代、この三次元世界で夢が虐げられがちな理由の一つとしては、夢というものが単なる理想論であると思い、理想と現実とを無理矢理に引き裂き、あくまでも理想は理想であって、現実の中には同居出来ないものであると思われがちであるということです。
つまり理想というものは現実ではないから叶わないものだと決め付けているということです。
しかし現実を見つめてみて下さい。
現在存在している全てのものは、かつて誰かが何処かで心に抱いたであろう理想から現れて来たものであるのです。
その昔、人類は限りなく広がる空に理想を描き、何時かは此の大空を飛んでみたいと夢見たはずです。
その夢は、やがて人類の文明とともに叶えられて来たのです。
空を飛びたいという願いは、その夢を真剣に追い求めて来た人たちによって叶えられ、現在は彼ら夢追い人たちの恩恵を受けて、ロケットや飛行機、気球やハングライダーによって、自由に大空を飛び回ることが出来るようになりました。
又は遠くまで気軽に短時間で行けるようになりたいと描かれた夢が、夢追い人たちの努力により現在、自家用車や電車・バス、新幹線などによって叶えられ、更にリニアモーターカーへと夢を託しているではないですか…。
世の中を明るく照らしたいといった夢が、現在こうして凡ゆる照明器具となり、遠くの知人と何時でも手軽に話がしたいという夢が、電話回線を地上に張り巡らせ、電波塔や人工衛星によって世界各所の電信機器を繋いでいるではないですか…。
人間の生活そのものは、そうした夢追い人たちの理想を追い求める努力があったればこそ成り立っているのです。
そうした夢追い人たちが、例えば夢を追い求めなかったならば、皆さんの生活は現在のように便利な状態では成り立ってはいなかったであろうと思うのです。
このように理想と現実とは、全く別物ではなく、理想を描き、その理想を追い求めて形に表したとき、現実のものとして三次元的存在を投影(現象物として形を現す)して来るものであります。
つまり理想に描いたものが現実世界に流露(流れ出して現れてくる)して来るということが真実なのです。
理想の『理』と現実の『現』とは非常に似ているのであります。
理想の理は王編に『里』という旁で構成され、現実の現は同じく王編に『見』という旁で構成されております。
つまり現実は現れた事実を見るということであり、理想は理念を想い描くことであり、理想(理念)こそ現実世界の里(郷里)であるということなのです。
06 実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】