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此処で肉体生命としての自由意思について語ってみたいと思います。

人間(肉体生命)として生まれ出ても、やはり善と悪との自由選択があるように見えます。
此処での悪とは一体、何を意味するのでありましょうか…。

曰く、此処での悪とは個性を尊重し過ぎる為に、他の個性との協調性や団結といった、相互理解の方向に意識が薄く、常に自分が自分がと自己中心的になり、他を排斥し裁き傷付ける…といった、正に自由意思を誤解しているとしか思えないような思いと行為ではないでしょうか…。
そのような誤った破壊的な思いと行為による自由意思が互いに相剋(相争い)し合って、大小の災禍が巻き起こって来るのです。

悪の正体を敢えて言うならば、破壊的な思いと行為であると言えます。
人心を失望落胆させ、個別化(孤独化)に誘引する暗黒思想であります。
そしてその手口は、精神界を迷妄の狭霧で封印し、肉体そのものが人間であるとして、肉体的五感の快楽のみを人生の目的として、行く末は肉体滅後は無に属すため、余生は自分本位に自由気儘に行きよ…と、生命の本質である進化の流れを堰き止めんとする迷いし意思であります。

破壊の後にユートピアが訪れる…と言った方も居たようですが、それはやはり間違っています。
何故なら破壊的行為が起こされて来る以前には、やはり破壊的思念があったはずで、その破壊的思念を改めなければ、破壊的行為は繰り返し巻き起こって来るからです。
このことは今さら論証せずとも、既に歴史が傷痕として証明している事でもあるのです。

人類の長い歴史の中で、叶うはずであった数多の理想が、悉く闇に封じ込まれてまいりました。
本人が理想を描かないだけに止まらず、他人の夢まで踏み躙る人まで出て来ています。
皆さんには聞こえませんか…?
叶うはずであった幾多の理想が、光が閉ざされた闇の中で誰かの助けを呼んでいる声が…。
貴方には聞こえないでしょうか?

現実(合理主義)という闇が、欲望という狭霧(仮初め)の夢が、唯物論(肉体のみ)という暗黒が、本当の生命価値が何であるかということを惑わせているのです。
それは工場がスモッグを吐き出して、青空を、太陽を、星々を曇らせているように、純粋な心を誤った思想で曇らせて、正しい理想を封じ込めているわけなのです。

この誤った思想とは一体、何なのであるかと言いますと、肉体のみが人間である…という思想です。
それは肉体各機関が原動力のように思い違いをし、脳ミソによって考え判断しているようにも思い違いをしている…。
こうした思い違いをしている近代の科学者たちが発見した理論からしても、肉体は新陳代謝を繰り成しながら常に新しい肉我を創り続け、古い肉我は体外に排出され続けております。
学者によって多少違いはあっても、約五年から八年ぐらいで、すっかり新しい肉体に変わってしまっているのです。
皆さんが生まれた時に纏っていた肉体は、もう既に其処には無いのです。
そうでなければ肉体的な成長は有り得ないのです。
肉体的な活性化は望めないのであります。
近代の科学者はこの事実から、霊的科学の領域に探究の手を広げるべきでありました。

脳髄についても例外ではなく新陳代謝を通して全て変わってゆきます。
ただ其の周期が長いだけである…。
それなのに一定の個性が存続している神秘を、よくよく考えてみなければならないのです。
それは肉体が人間の本質ではないということを物語っているということなのです。
それなのに多くの人は肉体のみが人間だと思い違いをして、肉体を楽させることが文明だと誤信して、その為の合理主義に傾倒し、偽りの繁栄を貪ってきたわけです。

合理化が合理化として認められる為には、精神性向上の時間を創り出す為の合理化であり、他者との愛を深め合う場所を確保する為の合理化であらねばならないはずなのに、精神的感覚を余り使わないで済むような方向に合理化が進むばかりで、怠惰な生活を大量生産しているに過ぎないではありませんか…?



こんなに曇っているのに
なぜ人は気付かないのだろうか
こんなに叫んでいるのに
人は何故 気付こうとしないのか…

遠い昔…
希望で胸を膨らませて
美しい地球に降り立った
大地は優しく微笑んでくれた
草花たちは祝福の詩を歌ってくれた

現代では…
それらの声は聞こえない
そればかりか
美しい自然を蔑ろにして
大気を汚し 河川を汚し
樹木は悲しみの中で
切り倒されてゆく…

大自然の悲痛の叫び声が
貴方たちには聞こえないのか
大自然の心の訴え掛けが
皆さんには伝わらないのか…

合理主義への妥協の中に
いつまで浸っているつもりなのか
肉体の感覚に頼れば頼るほど
心の瞳は閉じてゆくことも知らずに…



皆さん、よくよく考えてみて下さい。
欲求と言われるものの出所を探るならば、必ず其れは肉体に起因します。
人間にとっての三大欲求とは、食欲・性欲・睡眠欲であると言われています。
食欲が沸き、食べたい思いのままに食べることが人間として当然だと思っていませんか?
性欲が沸き、異性を求め欲求を満たすことが人間として当然だと思ってはいませんか?
眠いまま眠り、多く眠ることのみが健康に繋がると思い込んではいませんか?
本当に其れが人間として当然の事なのでしょうか…。
そこには本当に精神性の進歩があるでしょうか。
そこに本当の愛が観じられるでしょうか…。

これらの欲求は肉体各所が、肉体の生理機関としての秩序が守られ、調和されていて始めて欲求が『要求』として許されるものであるのです。
その肉体諸機関の秩序を破り調和を乱しているものは、肉体のみが人間であるといった、間違った思想を信じている誤った心であるはずです。
肉体のみが人間であると思い違いをしている為に、そういった人間が抱く愛というものは、単に肉体を喜ばせようとする動物的愛に堕落してゆくのです。
そこから凡ゆる動物的快楽が生じてくるのです。

皆さん、人間は動物なのですか?
食欲を満たし性欲を満たし、あとは寝るだけの、そんな詰まらない事だけのために生まれて来たのでしょうか…。
そうではないでしょう。
もっと高貴なものの為に生まれて来た筈です。
どうか心の窓を開いて本来の姿(実相)を想い出して下さい。
何が一体、自分を苦しめているのかを、静かに心を顧みた時に段々と判って来る筈です。

普遍的な絶対的真実は確かに存在します。
しかし其の真実は、現代という時代に最も適合した形式で、誰もが求めることの出来る理想でなければならないのです。
そうであるならば何が正しくて何が間違っているのかを、皆さんは自分自身で考えてゆかなくてはなりません。
其処には必ず答えが出て来ます。
なぜならば現代を正しく見つめ直すことが出来るのは、現代を生きている皆さん自身であるはずだからです。

此処に新創世記(第5巻)詩篇の中の『光を捧ぐ』の一節を、再び記しておきたいと思います。



夢追い人よ

愛を深める旅人たちよ

愛と勇気を心に見出して

真実の夢追いを心掛けよ

歴史の転換期である今

その歴史を変えてゆくのは

他ならぬ貴方たちではないか

過てる価値観と

歪められたる愛を

勇気を持って転換してゆく為に

選ばれて地上に降り立った勇士たちよ

それは貴方たちのことであるのだ…



06  実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】
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運命…この言葉に神秘的な、何か心を打たれるような気持ちを観ぜずにはいられません。

運命とはいったい何なのでしょうか?
これは全ての人が一生涯の中で何度かは思いを巡らす関心事でもあるでしょう…。

運命というものは、少なくとも二つの視点から観つめるべきではないかと思えるのです。
一つ目は人間が地上に肉体を纏って生まれてからの、何十年かの人生に対する運命感。
もう一つは肉体生命を超越した永遠に生き通しの、永遠の生命としての運命観。
これら二つの視点から運命というものを考えてみたいと思います。

人間の生命が、永遠に生き通しであるか否かは現在、テレビやラジオを通して、また凡ゆる書物などを通して、徐々に明らかとされつつあります。
生命が永遠に生き通しであると言うことを、根本的に認識が出来なければ、運命の扉を開いてゆくことが非常に困難であろうと思われます。
何故なら運命は、肉体生命の何十年かの人生のみでは、決して語り尽くせないからであります。

人は何故、生まれて来るのか…?
何の為に生きているのか…?
そして何故に死を迎えるのか…?
これらの疑問に全て答えてゆく為には、肉体生命の人生のみでは決して答えが出ては来ないのです。
人間は決して偶然の産物ではありません。

そこには久遠の昔から、遥かなる未来に至るまでを、貫き通した大いなる理念が在る筈なのです。
そうした大いなる理念の中で、凡ゆる時代に、凡ゆる地域へと何度も何度も転生輪廻しているのです。
では何故、転生輪廻が必要であるのでしょうか…。
それは生命の本質が退歩ではなく『進化』であるからです。
常に進化し続ける事こそ生命の本質だからです。

そうしてもう一つ言えることは、生命の進化に対しては自由意志を尊重されていると言うこと…。
生命の進化に対する歩み(努力)の度合いは、各々の生命に任せられていると言う事です。
進歩向上する際の歩調(足取り)の速さ遅さは、各々の個性に応じた歩調である訳ですし、その個性に応じた歩調の中で、一つまた一つと進歩してゆくべきではないでしょうか…。
極端に向上を目指して闇雲な努力をしてみたり、逆に生命の本質を忘れ怠惰な生活に傾倒したり…と、このような両極端の中からは、どうしても無理が生じ、やがては生命の本質をも見失ってしまうでしょう。

生命の進化に対する『自由意志』というものを決して誤解してはならないのです。
自由意志は善も悪をも成し得る自由意志であるように捉えられがちではありますが、もう少し違った視点で自由意志を考えてみるならば、その自由意志とは『進化』に伴った方向で、個性を生かして発言してゆく自由と、その個性の歩調の速さ遅さの自由であると思うのです。
個性には様々な彩りがあるからです。

善と悪とを『進化』の大河に当て嵌めてみるならば、次のように例えられます。
皆さんは川の流れを、下流から上流に向かって、何処までも泳ぎ続けられますか?
滔々と流れて来る川の流れに逆らって元気のあるうちは、ある程度は泳いでゆくことが出来ても、やがては力尽きて川の流れに従わざる負えない自分を発見する筈です。

進化の大河の流れとしての自由が与えられている生命たちは、その進化の流れを止めようとしたり、逆流させようとしたとしても、滔々と流れくる進化の大河に、自身の小ささを思い知らされるばかりで、やがては自身の無謀さに気付き、進化の大河とともに、その流れの一端として流れてゆくことになる訳です。
この進化の大河が『善』であり、流れを止めようとしたり逆流させようとすることが『悪』とも言える訳です。

此処での逆流とは、正に進化を止める働きである訳ですが、進化の流れに合わない傾向性(はたらき)に関しては、他の誰かが傾向性(こころ)を修正するのではなく、自身の守護霊(良心の呵責)により良心が自己を処罰して、正しい流れに合うように誘導してくるのであります。
これらの事から永遠の生命としての運命とは、結局のところ『進化』であるという事を言いたいのです。
ですから人間は、この進化の大河に兼ね合った方向で、各々の個性を最大限に進歩向上させてゆくべきではないでしょうか…。

ここで『進化』について、もう一つ思いを巡らせてみなければならないものがあります。
それは其の進化が何故の進化であるかと言う事なのです。
何故に進化せねばならないかと言う事 なのです。
進化に対する目的が其処には必ず有る筈なのです。
その目的とは何なのでしょうか?

この進化の目的とは『愛』に他なりません。

進化を臨んでゆく中に一つ一つ愛を発見し、更に愛を深めてゆくことこそが、本当の目的であるはずなのです。
そうであるならば永遠の生命として、愛を深め広げる為に、常に進化を臨んでゆくことを運命付けられていると言うことです。
その為に人間は転生輪廻を繰り返して、窮屈にも思われる肉体を纏い、何十年かの魂修行を積むのであります。
個々の生命と言っても其の実態は、とても膨大であり巨大であり、地上人間の肉体に納まるような、そんなちっぽけなものではありません。
肉体の中に宿っている生命体は、本来の人間の巨大な生命体の一部分であり、本体は常に魂の分身分霊を守護し指導して下さっております。
そうして地上で魂修行を積み重ねてゆくわけですが、たった一代(今世)のみでは、とても総てを学び尽くせない為に、何度も生まれ変わって学び続けてゆくのです。
人間は本来は永遠の生命として、永遠なる旅路を営々と続ける夢旅人であるのです。

地上に生まれてくる生命は、それぞれに人生の計画を立てて来ます。
その計画の内容は様々で、高度に進化された生命ほど綿密な計画を立てて来るようです。
そうした計画どうりの人生が展開するように、其の人生計画に最も適した環境を敢えて選んで生まれて来るのです。
そして人間(肉体生命)として生きてゆく中で、当初の計画から外れるような方向に、魂の傾向性が傾倒し始めると、個人を守護している生命(守護霊)が、巧みに軌道修正してゆくのです。
その軌道修正が地上人間にとって、時には悪循環のような境遇で現れてくることもありますが、本人の守護霊からすれば、本来の計画から外れているぞ…と言った警告でもあるのです。

このように人間(地上生命)は、本当は守られ導かれている存在であることを、深く深く感謝せねばなりません。
そうした軌道修正が無かったならば、どのような深い淵の底に埋もれて行ったか計り知れないのです。

今まで説明しました通り、肉体生命としての運命は、本人が地上に生誕する以前に計画を立てて来た訳で、その人生計画の内容によって個性別に運命が異なって来る訳です。
永遠の生命としての運命は、全生命が共通の理念の基に『進化』の方向で定められているのに対して、肉体生命としての運命は、そこに新たな魂修行という要素が含まれてまいります。
肉体という、かなり制限された宇宙服を纏いながらも、同時に自身を取り巻く環境に縛られながらも、何処までも生命の本質を進化させ続ける中で、真実の愛を発見し続けてゆく訳ですが、そうした肉体的拘束や環境による拘束を、どのように乗り越えてゆくかによって、魂修養に臨んでいるのであります。

然し乍ら肉体生命として地上に生まれてくる生命は、本体の一部分である為に、肉体に宿った途端に、その意識の殆どを忘れ去ってしまいます。
そうして薄っすらと覚えていた残りの記憶さえも、余りにも現実の波長(なみ)が鈍重(荒い)ために忘れ去ってしまうようです。
そのため自分が何のために生まれ、何のために生きているのかさえも判らず(知ろうともせず)、当初の計画にも気付かぬまま肉体生命を終えてゆく人が多いのです。

どのような人であっても守護している霊人が必ず存在して、本人(地上生命)に本来の計画(使命役割)を一生懸命に気付かせようとしているのです。
時には本人に警告する為に、かなり厳しい環境に導くことすらありますが、本人(地上生命)は何故そのような環境に取り巻かれるのかが解らず(知ろうともせず)、守護霊の警告を無駄にしていることが多いようです。
そのため守護霊たちも本人(地上生命)に嫌気がさして休眠している霊人も少なくないのです。
人間は本当に守護霊の存在を悟り、自身の魂の分身(守護霊…もう一人の自分)と深く和解しなければなりません。

もはや『知らない』ということを決して言い訳には出来ないのです。
『知らない』のであれば自ら進んで学んでゆくしかないのです。
真実を常に探究し学習し、智恵と教訓とを導き出して得た解答を基にして、愛行・善行・徳行を積んでゆくのみなのです。
そうでなければ何の為の魂修行かが判らなくなるばかりです。
肉体生命としての運命とは、正しく自分自身で計画して来た人生計画であるのです。



06  実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】


繁栄とは、調和の拡大である。

調和なき繁栄は単なる混沌であり、秩序なき烏合の衆である。
また其れとともに繁栄を目指すところにのみ、真なる調和が築かれるのである。
繁栄を目指さぬような調和は、型に嵌った形式主義に陥り、魂の進化したものを引き摺り下ろし、未だ魂の進化しざるものを無理やり引き上げんとして、個々のペース(歩調)を乱して阻害し、相互に裁き合う世界が展開しがちである。

繁栄と調和とは二つにして一つ。
元々たった一つのものが、それぞれの個性の下に二つに岐かれて、各々の役割を完全に担って行くための、宇宙の根本的二大原理なのである。
万象万物の根本理念も、これら二つの理念(繁栄と調和)からなり、二つに岐かれたる繁栄と調和の理念を、一つに融和するところに生命の創造が果たされ、その個生命の中よりエネルギーを湧き上げてくるのである。

繁栄と調和は時には天(理念)と地(具現)に岐れ、時には遠心力と求心力とに岐れ、時には生長と生育とに岐れ、時として男性と女性として岐れ、また多面として枝岐れて、それぞれの役割を演じ、個生命の彩りを発揮するのである…。
そうして岐れたる二つの理念、二つの概念、二つの事象を一つに融和し光に向かう時、新たな創造が成されてゆくのである。

天地創造も斯くの如く成されたのであり、小さな原子の創造も、大宇宙の創造も、其れがミクロであろうとマクロであろうと、その規模に関わらず一つなるものから岐れたる、複数の理念の融合によって創造され、更に光に向かうことによって、生命体としての働きを完うしてゆくのである。

人間の一生も同じであり、向上(繁栄)を目指しつつ探究(調和)を忘れず、愛を与え(伝え)つつ自らの愛を深めつつ、発展を望みながら他者との心の結びを忘れないように、大宇宙の二代原理である『繁栄』と『調和』に叶った人生が、最も美しい人生である。
この地上に栄えた在りと凡ゆる文化文明も、繁栄と調和の理念の融合によって創造され、融和体としての理念に兼ね備わった創造体のみが、更に自己展開して新たな創造への道を歩み始め、永々と歩みを続けるのである。

繁栄とは、向上発展を目指す一つ一つの個性が、供に手と手を携えて、愛の基に助け合い励まし合い、時として切磋琢磨して生かし合い伸ばし合う…。
その姿は大樹に例えられる。
調和とは、結び協和を目指す一つ一つの個性が、それぞれの生命の本質を尊びつつ、徳性(歩み)の段階(歩調)に従って秩序立ち、愛の基に理解し合い支え合い、時として十分に距離を置いて、時期を待ち和解し合う…。
その姿は大河に例えられる。

夢追い人よ、貴方の夢が、ここ一日二日で実現するような淡く儚いものならば、一日二日の短い喜びしか味わえないのだ。
けれども夢追う人よ、貴方の夢が五年・十年・二十年・五十年と、遠く大いなるものならば、貴方の喜びも時の流れとともに永遠となるのである。
そうして貴方の夢が、例えどの様な夢であろうと、先ずシッカリとした地固めをせよ。
足場を固めよ。
基礎を確立せよ。
自らの心を常に顧みて、自己の傾向性をチェック(反省)せよ。
自らの心を掴めなくして、他者の心の痛みは理解出来ないのである。
何故なら自己の傾向性が見出せないならば、自己の都合で他者を推し量ることになるからである。
他者の心を理解したければ、相手が立つ大地(視点)に自らの足(歩調)を立たしめて、供に次の一歩を目指せばよいのである。

全ての生命を尊ぶ者は、悪戯に他者を非難して裁くことはないのである。
例え現状がどうであれ、生命は光(未来)を目指して旅をしているのである。
自己の立場、自己の評価に捕らわれているもの程、自と他の位置関係を気にするのである。
自己の報酬、自己の願望に捕らわれているもの程、自と他の損得問題を気にするのである。

人間の成長過程にて、心して諌めねばならんものとは、自己確立の際の失望と怠惰であり、調和を目指す際の不信・不審・疑心暗鬼であり、更に発展繁栄を目指す際の自惚れ・自己増長である。

夢追い人よ、此れらの魔の手を掻い潜れ。
貴方たちには夢(理想)がある。
貴方たちには光(希望)がある。
勇気と限りなき愛がある。
常に自己の言動を顧みて、心の浄化に努めよ…。
やがて生命の本質が輝き出す時が来るのである。

貴方の歩む道(人生)は希望そのものなのだ。
貴方の生命が希望そのものであるからである…。



06  実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】

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