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運命…この言葉に神秘的な、何か心を打たれるような気持ちを観ぜずにはいられません。
運命とはいったい何なのでしょうか?
これは全ての人が一生涯の中で何度かは思いを巡らす関心事でもあるでしょう…。
運命というものは、少なくとも二つの視点から観つめるべきではないかと思えるのです。
一つ目は人間が地上に肉体を纏って生まれてからの、何十年かの人生に対する運命感。
もう一つは肉体生命を超越した永遠に生き通しの、永遠の生命としての運命観。
これら二つの視点から運命というものを考えてみたいと思います。
人間の生命が、永遠に生き通しであるか否かは現在、テレビやラジオを通して、また凡ゆる書物などを通して、徐々に明らかとされつつあります。
生命が永遠に生き通しであると言うことを、根本的に認識が出来なければ、運命の扉を開いてゆくことが非常に困難であろうと思われます。
何故なら運命は、肉体生命の何十年かの人生のみでは、決して語り尽くせないからであります。
人は何故、生まれて来るのか…?
何の為に生きているのか…?
そして何故に死を迎えるのか…?
これらの疑問に全て答えてゆく為には、肉体生命の人生のみでは決して答えが出ては来ないのです。
人間は決して偶然の産物ではありません。
そこには久遠の昔から、遥かなる未来に至るまでを、貫き通した大いなる理念が在る筈なのです。
そうした大いなる理念の中で、凡ゆる時代に、凡ゆる地域へと何度も何度も転生輪廻しているのです。
では何故、転生輪廻が必要であるのでしょうか…。
それは生命の本質が退歩ではなく『進化』であるからです。
常に進化し続ける事こそ生命の本質だからです。
そうしてもう一つ言えることは、生命の進化に対しては自由意志を尊重されていると言うこと…。
生命の進化に対する歩み(努力)の度合いは、各々の生命に任せられていると言う事です。
進歩向上する際の歩調(足取り)の速さ遅さは、各々の個性に応じた歩調である訳ですし、その個性に応じた歩調の中で、一つまた一つと進歩してゆくべきではないでしょうか…。
極端に向上を目指して闇雲な努力をしてみたり、逆に生命の本質を忘れ怠惰な生活に傾倒したり…と、このような両極端の中からは、どうしても無理が生じ、やがては生命の本質をも見失ってしまうでしょう。
生命の進化に対する『自由意志』というものを決して誤解してはならないのです。
自由意志は善も悪をも成し得る自由意志であるように捉えられがちではありますが、もう少し違った視点で自由意志を考えてみるならば、その自由意志とは『進化』に伴った方向で、個性を生かして発言してゆく自由と、その個性の歩調の速さ遅さの自由であると思うのです。
個性には様々な彩りがあるからです。
善と悪とを『進化』の大河に当て嵌めてみるならば、次のように例えられます。
皆さんは川の流れを、下流から上流に向かって、何処までも泳ぎ続けられますか?
滔々と流れて来る川の流れに逆らって元気のあるうちは、ある程度は泳いでゆくことが出来ても、やがては力尽きて川の流れに従わざる負えない自分を発見する筈です。
進化の大河の流れとしての自由が与えられている生命たちは、その進化の流れを止めようとしたり、逆流させようとしたとしても、滔々と流れくる進化の大河に、自身の小ささを思い知らされるばかりで、やがては自身の無謀さに気付き、進化の大河とともに、その流れの一端として流れてゆくことになる訳です。
この進化の大河が『善』であり、流れを止めようとしたり逆流させようとすることが『悪』とも言える訳です。
此処での逆流とは、正に進化を止める働きである訳ですが、進化の流れに合わない傾向性(はたらき)に関しては、他の誰かが傾向性(こころ)を修正するのではなく、自身の守護霊(良心の呵責)により良心が自己を処罰して、正しい流れに合うように誘導してくるのであります。
これらの事から永遠の生命としての運命とは、結局のところ『進化』であるという事を言いたいのです。
ですから人間は、この進化の大河に兼ね合った方向で、各々の個性を最大限に進歩向上させてゆくべきではないでしょうか…。
ここで『進化』について、もう一つ思いを巡らせてみなければならないものがあります。
それは其の進化が何故の進化であるかと言う事なのです。
何故に進化せねばならないかと言う事 なのです。
進化に対する目的が其処には必ず有る筈なのです。
その目的とは何なのでしょうか?
この進化の目的とは『愛』に他なりません。
進化を臨んでゆく中に一つ一つ愛を発見し、更に愛を深めてゆくことこそが、本当の目的であるはずなのです。
そうであるならば永遠の生命として、愛を深め広げる為に、常に進化を臨んでゆくことを運命付けられていると言うことです。
その為に人間は転生輪廻を繰り返して、窮屈にも思われる肉体を纏い、何十年かの魂修行を積むのであります。
個々の生命と言っても其の実態は、とても膨大であり巨大であり、地上人間の肉体に納まるような、そんなちっぽけなものではありません。
肉体の中に宿っている生命体は、本来の人間の巨大な生命体の一部分であり、本体は常に魂の分身分霊を守護し指導して下さっております。
そうして地上で魂修行を積み重ねてゆくわけですが、たった一代(今世)のみでは、とても総てを学び尽くせない為に、何度も生まれ変わって学び続けてゆくのです。
人間は本来は永遠の生命として、永遠なる旅路を営々と続ける夢旅人であるのです。
地上に生まれてくる生命は、それぞれに人生の計画を立てて来ます。
その計画の内容は様々で、高度に進化された生命ほど綿密な計画を立てて来るようです。
そうした計画どうりの人生が展開するように、其の人生計画に最も適した環境を敢えて選んで生まれて来るのです。
そして人間(肉体生命)として生きてゆく中で、当初の計画から外れるような方向に、魂の傾向性が傾倒し始めると、個人を守護している生命(守護霊)が、巧みに軌道修正してゆくのです。
その軌道修正が地上人間にとって、時には悪循環のような境遇で現れてくることもありますが、本人の守護霊からすれば、本来の計画から外れているぞ…と言った警告でもあるのです。
このように人間(地上生命)は、本当は守られ導かれている存在であることを、深く深く感謝せねばなりません。
そうした軌道修正が無かったならば、どのような深い淵の底に埋もれて行ったか計り知れないのです。
今まで説明しました通り、肉体生命としての運命は、本人が地上に生誕する以前に計画を立てて来た訳で、その人生計画の内容によって個性別に運命が異なって来る訳です。
永遠の生命としての運命は、全生命が共通の理念の基に『進化』の方向で定められているのに対して、肉体生命としての運命は、そこに新たな魂修行という要素が含まれてまいります。
肉体という、かなり制限された宇宙服を纏いながらも、同時に自身を取り巻く環境に縛られながらも、何処までも生命の本質を進化させ続ける中で、真実の愛を発見し続けてゆく訳ですが、そうした肉体的拘束や環境による拘束を、どのように乗り越えてゆくかによって、魂修養に臨んでいるのであります。
然し乍ら肉体生命として地上に生まれてくる生命は、本体の一部分である為に、肉体に宿った途端に、その意識の殆どを忘れ去ってしまいます。
そうして薄っすらと覚えていた残りの記憶さえも、余りにも現実の波長(なみ)が鈍重(荒い)ために忘れ去ってしまうようです。
そのため自分が何のために生まれ、何のために生きているのかさえも判らず(知ろうともせず)、当初の計画にも気付かぬまま肉体生命を終えてゆく人が多いのです。
どのような人であっても守護している霊人が必ず存在して、本人(地上生命)に本来の計画(使命役割)を一生懸命に気付かせようとしているのです。
時には本人に警告する為に、かなり厳しい環境に導くことすらありますが、本人(地上生命)は何故そのような環境に取り巻かれるのかが解らず(知ろうともせず)、守護霊の警告を無駄にしていることが多いようです。
そのため守護霊たちも本人(地上生命)に嫌気がさして休眠している霊人も少なくないのです。
人間は本当に守護霊の存在を悟り、自身の魂の分身(守護霊…もう一人の自分)と深く和解しなければなりません。
もはや『知らない』ということを決して言い訳には出来ないのです。
『知らない』のであれば自ら進んで学んでゆくしかないのです。
真実を常に探究し学習し、智恵と教訓とを導き出して得た解答を基にして、愛行・善行・徳行を積んでゆくのみなのです。
そうでなければ何の為の魂修行かが判らなくなるばかりです。
肉体生命としての運命とは、正しく自分自身で計画して来た人生計画であるのです。
06 実相流転 【炎の道標編】 【風の道標編】