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『貴方の未来像』について語ってきた訳ですが、自らの過去の言動を顧みて少なからずショックを受けた人や、逆に更なる希望を抱いた人も居たことと思います。
ショックを受けた人は自分自身の過去の言動に思い当たる何かがあったであろうと思いますし、希望を抱いた人は抱えていた問題を乗り越えてゆく勇気が湧いて来たであろうと思います。
それで此れから語られる内容が本当に理解出来たならば、貴方の人生という一冊の本から、悲しみや苦悩という文字が消えて、或いは喜びとトキメキという文字に変換してしまうことでしょう…。
もっとも、悲しみや苦悩などを愛する方は其れらの悲しみや苦悩と供に人生を過ごして下さい。
人としての在り方・生き方は自由意思を尊重されておりますので、心の傾向性(魂の方向性)のままに生きればいいことであって、誰も否定の余地は無いのです。
ただ自由意思は尊重されているわけですが、貴方に於いて(貴方の心の傾向性に於いて)現れてきた結果に対しては、全てを自分自身で受け止めなければならないと言うことを忘れないで下さい。
決して他の誰に対しても環境や境遇に対しても、その責任を押し付けたり転嫁してはならないのです。
そうした弱い弱い心であってはならないのです。
自分が接する物事の一切は全て自分に責任が有るのだという強い強い自覚の下に生きて下さい。
それでは『人生に光を充てて…』ということですが、先ず最初に皆さんは運命というものが定められているいないに関わらず、今より後の未来に於いては、自分自身の運命を良展開してゆけるのではないかと、薄々は気が付いておられることと思いますが、既に過ぎ去った日々に於いて、過去の人生は変えられないと思っておられるのではないでしょうか…。
確かに過去の出来事そのものは、タイムマシーンでも無い限り変えては行けないものですが、体験(過去の出来事)そのものは変えられなくとも、過去の全てを輝かせることは出来るのであります。
それは非常に簡単なことでありまして、現在…というよりも『今』この時が貴方にとって、幸福であるか不幸であるかの心の状態によって、過去が光り輝くか闇の淵に埋もれるかが決まっていると言えるのであります。
物事には二面性あるいは多面性があって、その見方・捉え方・感じ方によって『良し』とも『悪し』とも定められてしまいますが、少なくとも今この時が不幸だと思って居られる方の過去に対する見方・捉え方・感じ方は、やはり悲しみ多き苦悩の日々ではないでしょうか…。
それは現在の自分が不幸であると思っている以上は、過去に於いてどのような素晴らしい体験があろうとも何の意味も無く、むしろ現在が不幸であるから、過去を振り返ってみても辛い体験ばかりが思い出されて、更に辛さを増すばかりで、何処まで行っても悪循環でしかありません。
しかし現在の今この時を幸福だと思える人の過去というものは、それが例え辛い体験であったとしても、現在の幸福に至る為の強く優しい精神を磨く為の砥石であり、更に進歩してゆく為の土台であり基礎精神であったと思えるからです。
現在只今が不幸であると思われる方は過去に於いても輝きを失っているが、未来に於いても不安や恐怖が先走っているようです。
結局は過去・現在・未来を通して暗い人生観を持っている人が殆どなのです。
そうした方は言葉では幸福を求めていたとしても、心の奥底で不幸な境遇を愛して(気に掛けて)いるのであり、不幸というものを隠れ蓑として同情を求める気持ちで一杯なのです。
そうした人たちに申し上げます。
どうか不幸を愛する(気に掛ける)心を勇気を持って捨て去って幸福のみを愛して下さい。
今という大切な一刻々々を幸福の光で満たして下さい…。
本当に現在の今この時が幸福であるならば、過去の体験は全て光り輝いているはずです。
未来の総ては希望に満たされているはずなのです。
過去・現在・未来を通して光り輝いているはずです。
それでこそ人としての在るべき姿・在るべき生き方ではないでしょうか…。
皆さんは街を歩いていて、ぶっきらぼうな顔付きでブツブツ文句を言っている人や、嘆き悲しんで陰鬱に沈む人を見て喜ばしく思うでしょうか。
そう言った人に対して出来うる限りの愛を注いであげることは大切ですが、其の人にとって本当の在り方・生き方ではないと思えるでしょう。
それとは逆にニコニコと微笑みを振りまいている人を見掛けた時に、そんな人をこそ喜ばしく思うのではないでしょうか。
笑顔を絶やさず振りまく人に心を惹かれ、その人にこそ憧れるのではないでしょうか…。
本来の人間として膨れっ面を振りまくか、眩しい程の笑顔を振りまくか…は、明らかに人としての本当の姿・本当の在り方は後者であります。
これらのことから言えることは、現在只今の自己自身が幸福だと思っている人は、自分自身の過去・現在・未来を光で照らすばかりか、周りに居合わせる人々をも光で照らしてゆくのであります。
人間が求める夢追いの過程に於いても、こうした前向きな姿勢が必要ではないでしょうか…。
ここで幸福とは一体、何であるかが問われると思うのですが、本当の意味での幸福とは、過去から現在に至るまで、こうして現に生きて来て、貴方が認識するしないに関わらず生かされて来たことに対する感謝の心と、未来に対する確かな夢(目標)を持ち、その夢に対して希望を描き続ける明るい人生観を持っているということです。
貴方の人生(夢追い)に光を充てて、自分一人のみならず、貴方に接する全ての人たちにまで、その光を照らしてあげて下さい。
貴方の笑顔を、貴方の活躍を、誰かが何処かで待っているのです。
そしてそれらの人たちにとって貴方の存在は、希望の光そのものに映るのであります。
07 実相流転 【水の道標1】
人間が地上世界で自らの使命のままに生き貫く為には、強く深く高邁な理想を心に有する必要があります。
理想というものは『理』を『想い』描く意志でもある為、言葉を変換するならば、これは『希望』という名の思い描きに該当いたします。
希望とは言葉であり、貴方の生命そのものであります。
実相人間の本来の相(姿)は希望そのものであります。
このことが一体どういう意味であるかを説明する為に、先ずは『思い』ということについて説明しなければなりません。
思いには次の三種類の思いがあり、それは『思い』であり『想い』であり『念い』である訳です。
『思い』とは、1日の生活内で心に浮かんでくるところの、去来する思いでありまして、何方かというと自分を中心に思いが巡るものであります。
〔井の中の蛙〕という諺がありますが、これは単に井戸の中のみを指している訳ではありません。
蛙は大抵の場合、生まれ育った自らの田んぼで一生を終えて行きます。
まあ中には稀に隣の田んぼに畦道を乗り越えて冒険していくような蛙も居る訳ですが、大抵の場合は同じ田で一生を終えて行くのです。
つまり自分の田んぼの範囲(世界)しか知らないのです。
自分中心の世界しか知らず、他の田んぼを知らないし、知らないから認められない…という意思も時には涌いてくる訳です。
『思い』とは『田』の『心』と書く通り、自分を中心に巡らす意思が『思い』ということであります。
それに反して『想い』とは『相手』の『心』と書く通り、これは相手を中心に巡らす意志が『想い』となる…と言う事であります。
この『想い』が深まれば、意志は自ずと『愛』に代わってゆくのです。
因みに恋というものは、自分に無い何かを相手に求める『思い』であり、それは憧憬とも言える訳ですが、その求める(欲する)思いを転じて、相手の為に何かを施したい(与えたい)という意志を巡らす時にこそ、恋心が『愛』へとた昇華してゆくのであります。
また恋愛に関わらず、他の人たちに愛の想いで言動を発する意志は、やはり『想い』によるものであります。
それらの思い(想い)が過去に無く、未来に無く、現在という一定の空間の何処にも無く、今の一点に意識が集中する時に『念い』となる訳であります。
『念い』とは『今』の『心』と書く通り、心が過去の何ものも引きずらず、未来の何処にも囚われず、現在の如何なるものにも縛られず、ただ今の一点に意識を集中する器霊(こころ)が、『念い』であると言う事であります。
これら三つの思い(想い・念い)には一定の方向性があるのですが、それは慣性の法則と言ってもいいでしょう。
器霊(こころ)にも慣性の法則が働いているのです。
皆さんはボーリングを楽しんだことがあると思います。
数十メートル先の10本のピンを、ウェイトのあるボールを転がして倒すというゲームです。
先程の慣性の法則をボーリングに例えるならば、レーンの中間を《現在》だと仮定すると、ボールを投げる位置からレーンの中間までが《過去》であり、レーンの中間から10本のピンの位置までが《未来》であると仮に想定しまして、ここで或る人がボールを投げたとします。
その投げられたボールは投球ライン《過去》からレーンの中間《現在》まで達しました。
其の後のボールの行き先《未来》は果たして如何なる結果を創み出すでしょうか…。
これは想像に難くなく其の後のボールの行き先《未来》は、投球ライン《過去》からレーンの中間《現在》までのボールの転がり具合を見れば大体は推測することが出来るということなのです。
どのピン《未来》に到達するかは、ボールがレーンの中間《現在》に差し掛かった辺りで大体は解ってしまうと言う事であります。
此処で器霊(こころ)に於いての慣性の法則の話に戻しますが、皆さんが過去から現在に至るまでに、より多く心に巡った思い(想い・念い)こそが、貴方の未来像であると言えるのであります。
不幸を多く思った人は、お望み通り不幸になるでしょうし、幸福を多く想った人は、やはり幸福になってゆくでしょう。
病気を多く思った人は病気ぎみな人生でしょうし、愛の想いを多く想った人は愛に包まれた愛多き人生となることでしょう…。
結局のところ常日頃から、どの様な希望(思い・想い・念い)を描いているかによって、貴方の未来像(将来への方向性・魂の傾向性)が決まってくる訳であります。
例えば人間の肉体は新陳代謝を繰り成していると言う事ですが、常に新しい肉我を創り出す原動力こそ希望(言葉)であるのです。
ですから病気ぎみな人は出来る限り病気に対する思い描きを止め(病に対する不安や恐怖を心に抱くことを止め)、健全で前向きな人生観と、未来に対する明るい希望を心に想い描くように努めれば、健康なる言葉(希望)は健康なる肉我を創り続け、不調なる肉我は輩出されて、やがて病気は治癒(全快)してゆくことになるのです。
もっと人間は内なる生命力(生命の自然治癒力)を信じるべきであり、総ての希望を形に現す生命の神秘を、よくよく知るべきであります。
正しく希望が言葉であり貴方そのものであるのです。
夢を描き、その夢に希望することの大切さが、これで判って致だけたと想います。
07 実相流転 【水の道標1】
自らの現在の人生観が正しいか否かの判断は、現状の自分自身の心の在り方では本当は判り得ないものでもあります。
どうしても人間は自らの価値基準を正当化したいと思うのが人情でもありますので、これも或る程度は個性化として認め合うべきものでもあります。
しかし個性化は個人的価値基準に過ぎないということも知って下さい。
複合的な多民族国家に於いて、個人の価値基準は個人のみに通用する価値観であることを悟り、複数の人民が寄り合う際には複合的な統合価値基準を創出させる必要があるのです。
現在の日本人は、日本国家が純粋な単一国家であると信じている人々も多いでしょうが、歴史上での事実を申し上げるならば、かつて太平洋に存在したムー大陸から移民した人々(毛族と言われておりますが)を始めとして、古くは海路よりシュメール人の末裔が洋上を渡って移民され、陸路よりはユダヤ人の末裔が大陸を辿って移民され、特に維新後は世界各国から様々な人種が日本の地に根を張り、その度に日本の国体は大きく揺れ動いて、国を二分するような戦火も巻き起こった次第であります。
しかし結果的には全ての民族を高天原の神々は受け入れた訳です。
何故ならば日本神道の中心理念が『産巣日(むすび)』であるからなのですが、本来の産巣日(むすび)は複合的価値観に基づいた価値そのものの発展性を、秩序と調和に盛り込んで、常に発展的融和(産巣日)を目指す方向に進められるべきものであります。
様々に個性化した民族意識を統合する為に、最も重要な理法として高天原の神々が創出されたものが、言わずと知れた『祭政一致』の理法であります。
この理法の趣旨に当たるものは、かつてムー文明に於いて帝王ラ・ムーの時代に遡りますが、ムー大陸の沈没によって全世界に散った同朋たちが、永き時代の変転の末に一堂に会した『里帰り』を意味している訳です。
この民族の『里帰り』については新創世記8巻(地の道標編)にて語られておりますので、此処では現在の人々が宇宙船地球号の中での複合的価値基準を『祭政一致』の理法に基づいて、創出する必要があると言うことだけ述べておきたい…。
さて、環境を踏破する正しい反省ですが、人間は何に於いて反省をすべきかと言うことになりますと、やはり複合的価値基準に於いての自らの言動について反省をするべきなのであります。
祭政一致というものが誤解されつつある訳ですが、これは原点に帰れば自分自身の価値観と他者自身の価値観の違いを認め合った上で、この二者の価値観を共同生活をする上で一つに融和させる為には、二者を超越した根本理念(古くは自然界の営みを、近くは実相世界の光明の真理を)に解答を求めることが最も良いであろうと神々は考えられたからです。
故に本当の意味での実相の理念を、神的把握できる人が一人でも居れば、国を統べる神官も政治家も学者も教育者も必要が無くなってしまいます。
けれども実相の理念を神的把握し得る覚者が未来永劫、連綿として輩出するとは言い難いのも事実であります。
従って各宗派・各政党・各学科・各論者…等々が、根本理念を神的把握し得る方法論を模索しなければなりません。
然し乍ら此の模索には結論はありませんので、終わりなき旅路へ船出する気概が要求されるでしょう。
昔、ギリシャの地でソクラテスやプラトンが説いた『イデア』こそ、実相の理念を神的把握したる覚者のみが説き得る神法なのであります。
彼らはイデアを結論付けては居られない筈です。
結論付けられるイデアは、地上的な閉鎖型の個人的な価値基準に他なりません。
この詳しい理由は八大霊学(新創世記9巻以降)にて説明しております。
とにかく実相の理念を神的把握し得ない人間であるならば、もはや謙虚に一つずつ『イデア』を学んでゆくしか方法はありません。
知らないと言う事は恥ずかしい事ではないのです。
むしろ知ろうとしない事こそが恥ずかしい事なのです。
本当の智者とは自らの無知を知る者であります。
『イデア』を学びつつ、其の途路に於いて(その都度の心境に於いて)自らの言動の反省をして致だきたいと思います。
反省と言うと道徳的で堅苦しく暗い事のように思われる方も居らっしゃるようですが、反省が其のように誤解された理由は、当人が正しい反省と言うものを知らないと言う事でしょう。
反省とは書いて字の如く『反りみて省く』という意味なのですが、現在一般的に行われている反省は、『返り見る…』ところで留まってしまい、『省く』ところまで行っていないのが現状でしょう。
…と言うのは「私が悪かった…」と自身の過ちや失態を『反り見て』認めているところで止まってしまい、「私は駄目な人間だ…」「私は馬鹿だ…」と単に自分を悪くイメージするだけで、一歩も先に進もうとしない人が多いと言う事です。
例えば間違った思いを抱いた自分に気付いたならば、それだけで反省に於いての『反り見る』部分に達している訳ですが、更に進んで…
「この間違った思いを抱いた自分は、本当の自分の在るべき姿(在るべき在り方)では無かった。本来は、ただ相手の幸福のみを信じて祈ってあげるべきであった…」
…と心を入れ換えて(修正して…)
「これからは其の人の幸福の為に、何かお手伝い出来るように努力しよう」
…と強く決意するのであります。
つまり反省とは、自分自身の過ちを謙虚に反り見て、間違った心を本来の正しい在り方に修正して、その経験から智恵と教訓とを弾き出し、今後の人生に智恵と教訓とを生かして行けるような心を強く決意して、その決意の通りに行動し得た時に始めて反省が正しく反省として成り立ち、その壁(環境)を卒業してゆくことになる訳です。
このように心の根本から間違った自分の心を反り見て省いて行けたならば、心に引っ掛かりや拘りが無くなり、自然体そのままの境地で相手を純粋に愛してゆくことが出来る訳です。
故に反省とは決して暗い性格の人の代名詞ではなく、本来の自分自身の内部に光り輝く実相を覆っていたスモッグを取り去る行為であると言えます。
自身の実相(本来の神性)をスモッグで覆っていることにさえ気付かぬまま、更にマイナスの心を生産している人の方が、光明の視点(実相の瞳)から見たならば、どれほど心の暗い人たちであるかを、そろそろ現代人は悟る必要があるのです。
07 実相流転 【水の道標1】